TLにいる並んでいる呟きには、同じ言葉、同じ文字が使われているはずなのに、
なぜ、その言葉が突き刺さるのか?どれだけ多くの人の目に飛び込みやすい文字を意識して使うことができるのか、具体的な統計を取るなどをしている訳ではないが、きっとそのような単語の存在があるのではないか、と思う。
それと、もうひとつ。かれらの表現で驚かされるのは、
パラフレーズ(言い換えること)の能力。混みいった話や複雑な事象を簡潔に要約するだけでなく、「なるほど分かりやすい」と思えるようなパラフレーズが自然に出てくる。なぜ、そういう切り口から言葉に置き換えて頂けるのかと、と思い始めると、その才能に嫉妬しそうになる。
このような感覚は、大学時代に読み耽ったロラン・バルトに通じているように思う。
ロラン・バルトは、「明るい部屋」の中で、
- ストゥディウム
- プンクトゥム
バルトは、新聞の記事に添えられる写真は、記事、つまり、文字と対になることで判りやすい意味を伴うと指摘する。バルトは、それをストゥディウムと呼んだ。
僕は、文字として表現されたものの中には、写真のストゥディウム的な意味と呼応するような文字があるのではないか、と思う。その場合の文字とは、文字そのものは同じでも、僕が「言語の次元」で触れたような、どの次元の言語であるかが重要になる。また、パラフレーズされる時には、どの次元からどの次元へ、パラフレーズされているかを意識することが重要になる。
この指摘は、「ソーシャル・キャリアーの活性化の条件」にも繋がる点だと思っている。
一方、バルトは、亡くなった母親の面影を留めた一枚の写真、ただそのひとつに、プンクトゥムがあると言っている。バルトの言うプンクトゥムとは、「言語の次元」のどれにも当てはまらないように思う。敢えて言うならば、「ゼロ次言語」の文字が結ぶつく対象そのもののようにも思う。また、気づいているものの言葉に置き換えることが難しい、「暗黙知」のようなモノではないかと思う。
現代人の多くは、老若男女を問わず、「〜ような」「〜みたいな」という表現を使う。これらは、写真に含まれるプンクトゥムのような明確な意味ではないと思うので、敢えて書き添えておく。ぼやっとしているだけでは、プンクトゥムではない。
僕は、作家、エッセイスト、あるいは、思想家のような方の表現には、彼らだけが知っている、その言葉の裏側に潜むプンクトゥムのような意味に通じる、どこかノスタルジー的なものを感じている。一方、ジャーナリストやライターの方の表現には、新しいもの、埋もれていたものを発掘した時の驚きに似たもの(バルトは、センセーショナルという表現を加えていた)を感じる。
作家、エッセイスト、あるいは、思想家のような方の呟きは、ノスタルジーのようなものを感じることが多い。僕の心の何処かでは、そうした呟きに共感を覚える、なにかが脈づいていて、彼らの呟きを目にするとその何かを探し始める自分がいるように思う。
それは、子供のドングリ探しに似ている。たくさんの落ち葉の影にあるドングリを探すような、口に入れて食べる訳でもないのに、ドングリを握りしめながら、次のドングリを探す。たくさんのドングリを人って、何か満たされたような記憶は無いだろうか?
僕は、言葉の中にも、バルトのプンクトゥムのような役割を担うようなものがあるのではないか?と思う。このような感覚をパラフレーズできる能力がある人達が、作家、エッセイスト、あるいは、思想家のような方なのではないかと考える。
一方、ジャーナリストやライターの方の呟きには、壁に空いた節穴から光が差し込むような、得体の知れない期待が膨らむ。彼らの才能が非凡でないとすれば、その節穴をいくつも空けずに、暗闇の中に、その光を点すようなところではないかと思う。彼らの呟きをまねて呟いたとしても、TLの中に紛れてしまう自分の呟きにあがくような気持ちになることは、僕に限ったことではないだろう。
僕は、言葉の中にも、バルトのプンクトゥムのような役割を担うようなものがあるのではないか?と思う。このような感覚をパラフレーズできる能力がある人達が、ジャーナリストやライターのような方なのではないかと考える。
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