http://mashable.com/2010/04/27/facebook-walkout/
高校生たちは、FaceBook上で、18才の大学生が「来年度の教育予算削減に対する抗議をしよう」と呼びかけたことに応じて集まった。
抗議に参加した参加者たちは、MySpaceやTwitterなどのソーシャル・メディアを駆使することで集まっていった。
Newark students walk out of school, take City Hall
僕は、FaceBook利用者には、「同じ価値観、あるいは、同じ文脈を共有する現実世界の人間関係」がそのまま持ち込まれていること(あるいは、その可能性)を「対等のネットワーク」中でも指摘していたので、このような抗議活動の起点にFaceBookが関与したこと自体、特に驚きはしない。
自分たちの関係が明らかな状態では、それぞれの利害関係が明示的/暗示的にわかる状態にある。その為、打算的な呼びかけや興味本位の発言に呼応して行動することは少なくても、正論と思われるような呼びかけを無視することはなかなか難しいだろう。
もっとも、日本人の感覚に、このような感覚に異論を唱える人もいるかもしれない。然し、少なくとも、開かれた言論の世界では、「沈黙していること」は「反対しない」という意志表示としてみなされる。それが、表現の自由の意味だと言えば、理解してもらえるだろうか?
参加者の感想
以下は、この記事にある抗議活動への参加者の呟き。
これって、ぶっ飛んでる感じ(insanity)。ニュージャージー州の若い世代の一部になれてこれまでこんなに良かったと思うことはなかったわ。一緒に参加した皆を誇りに思う。みんなが美しい。これだけの高揚感に満ちた経験は、彼女ひとりだけの感想なのだろうか?
共有される価値観
FaceBookから発生したこの手の抗議活動は、ある人たちにとっては、
とても厄介な問題になり得ると思う。
人は、行動を起こし、その結果にメリットを感じる場合、それは強い「良い記憶」となる。これは、「学習」プロセスの大切なメカニズムになっている。
強力な「良い記憶」は、他の人と共有したいと思う行動を呼び起こす。これが、「パーセプション・モデル」の原理だ。その切り口から見ると、彼女の呟きからは、明らかに「学習」の形跡を読み取れるように思う。
これまで、企業は、自社製品やサービスの美辞麗句を並べ立てるようなコマーシャルにたくさんの予算を割り振り、それらをマス・メディアによって大量に発信してきた。しかし、ソーシャル・メディアは、人と人の関係を凄まじい早さで繋ぐことで、「信頼と評判」で繋がる新しい社会の秩序を作ろうとしている。
僕自身の認識が間違っていなければ、このソーシャル・メディアの時代になる時、その中心にいるのは、この記事にあるような若い世代のはずだ。
この記事に対する評価を自分たちの知識や価値観だけに当てはめて下すことは、本当に正しいのだろうか?僕は、この記事のような出来事が、今日、僕たちの周りで起きても驚かないだろう。なぜなら、世界にいる人と人は、どんどんと繋がっている。誰かの成功体験、つまり、人に自慢したくなるような「良い記憶」を自分も共有したいと望んでいるのだから。
勿論、最初からそういう価値観を共有することを望んでいない人たちもいる。
だから、厄介なのだ。
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