- 〜と読み違える。
- 〜と誤解する。
- 〜の解釈を誤る。
言語解析の論文を読んでみると、辞書の「見出し語(Lemma)」に続く文章は、「定義」ではなく「解釈」と表現されている。いくつもの出版社が国語辞典を出していて、それぞれに異なる編者が存在する。ひとつひとつの言葉の意味をどのように解釈しているか、その違いがあって当然なのだが、どこか辞書の「解釈」を「定義」のように絶対視する人がいる。これも、やはり、ミスリードなのかもしれない。
本来、ミスリードとは、情報受信のその瞬間、その都度起こるはずだが、こうした長い期間に渡って起きている記憶には、ミスリードにも似た落とし穴がある。
ミスリードが起きる要因について考えてみる。
その最も大きな要因は、情報受信者のそれまでの経験の中での意識的・無意識的な学習によるものと思われる。例えば、ある単語に対するある解釈を行ってみたところ、意味が通じたとしよう。別の機会に、同じ単語をみて、前回うまく通じた「解釈」を当てはめてみる。こうした経験が何度か繰り返されると、その単語の「解釈」が、あたかも「定義」のようなものの「錯覚」に陥ってしまう。
「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」においても、ミスリードの問題が起こりうることを意識しておくことは、とても大切だと思う。
Twitterでは、呟き(一度に発信できる情報)の文字数に、140文字という文字制限がある。携帯電話のショート・メッセージ・サービスの文字数が160文字であった為、これから宛先分に割り当てる20文字を差し引いた結果、140文字に決まったようだ。僕は、140という文字数は、はがきやメモ用紙に書かれる文字数の平均値に由来するのではないか?と考えている。
仮に、はがきとして考えてみる。はがきの限られたスペースの限界に挑むように文字を書くぐらいならば、便せんに文字を認めるだろう。
ところが、はがきにばかり気持ちが言ってしまうと、なかなかうまく行かないことがある。なんとか思いを伝えようと言葉を書き急ぐと、はがきに収まりきらない思いが溢れてしまう。同様に、はがきに書かれた言葉を慌てて読み急ぐと、はがきに込められた思いを見落としてしまうことになる。
米国のカフェでは、コルクボードを使った伝言板があるのをよく見かける。僕は、このような伝言板に貼られたメモが切っ掛けとなって、Twitterの世界に再現されているように思えてならない。メモには、自分の発信する情報に目を留めてもらう為の創意工夫がたくさんあって、とても楽しい。
Venessa Miemisさんの「ソーシャル・メディア」の中に、以下のような文がある。
Architecture may be a combination of form and function, but it’s also a representation of the cultural, political, and economic flavor of its time.
建造物とは、形態と機能の組み合わせですが、その時代の文化的、政治的、経済的、特色を表現しています。はがきであれ、伝言板に貼られたメモであれ、その形態と機能(form and function)による制約があり、その時代だからこそうまくいく(いっていたはず)の「錯覚」が無いかを考えて見る必要がある。
ソーシャル・メディアを通じて、僕たちは、ひとりひとりの気がついた価値を共有できるようになっている。だからこそ、自分が認める価値についてしっかりと捉えておくことは大切だと思う。マーシャル・マクルーハンが言ったように、「メディアはメッセージ」だから、それぞれの価値観に照らして、ソーシャル・メディアを利用するのが良い。メッセージとは、この時代に生きるひとりひとりが、その価値を認めた情報なのだから。
僕は、受け取った情報をミスリードしない為にも、僕の価値観に何度も照らしてみる。すると、言葉の言葉の間に、僕の知っているあの送り手が書きれなかった思いを見つけることができるかもしれない、と思うから。
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