2010年4月5日月曜日

毎朝のテレビ、あたかも報道番組を装って

毎朝のテレビ、あたかも報道番組を装って繰り広げられる番組。この手の番組は、話題になっている報道内容に対する解説と出演者のコメントから構成されている。

斜に構えて見ていると、番組の司会者が、学習塾の講師のように見えてくる。
学習塾の講師が、
「今度のテストにはここが出ますから、必ず覚えてください」
と念を押しているように、
番組の司会者は、
「今日の井戸端会議の話題にはここが出ますから、必ず覚えてください」
と念を押しているようだ。

番組には、井戸端会議で取り上げる話題と、その話題への突っ込みをする切り口が程よく散りばめられている。これらを記憶に留めて井戸端会議で発言すれば、あたかも時事問題に詳しいような気持ちになれる。まあ、そんな態を狙っているのだろうか。
こうした番組は、ジャーナリズムなんだろうか
と、ふと思う。


そう考えると、僕は、現代芸術を代表する二人のアーティストを思い起こさずにはいられない。マルセル・デュシャンアンディー・ウォーホール。僕は、彼らの作品に対する評価は当然のこととして、彼らを取り巻く時代の中で、彼らの表現活動は、時代を共有する多くの人達に「伝えるべき使命」のようなものに支えられていたのではないか、と感じている。

写真技術の発明によって、絵画は、それまでの肉体の修練による緻密な描写から解き放たれ、対象と向き合うことで芽生える心象を具体化するアートへと変わっていく。然し、現代芸術が飛躍的な展開を見せるのは、彼らによるところが極めて大きい。

デュシャンは、アートが、手仕事から生まれるモノだけではなく、大量生産された既製品からでも生まれることを見せた。ウォーホールは、社会全体に潜む暗黙知のような対象(このような対象をイコンと呼ぶ)を繰り返し使用することで、多くの人からのより多くの注目が得られる(増幅させる)ことを見せた。

アートのアートたる所以は、言葉によらず、その行為の意味を伝えることにあると思う。

例えば、辞書にある単語を丸暗記しただけでは、言葉を操って会話などできないように、ひとつひとつのアートの価値を正しく理解するには、いくつものアートに触れることでアーティストの表現のひとつひとつを咀嚼し、アートそのものではなく、アートの裏側にあるメッセージに目が向けられなければならない。アートを通じて、アーティストが語りかけてくるメッセージに触れるには、アートに対する誰かの批評をそらんじるようなことをしていてはいけない。


ここで、件の番組が、ジャーナリズムに値するかを敢えて真剣に考えてみる。

僕は、ひとつひとつの報道内容とか、それをどのように見せていたかをなんだかんだ言っても、所詮、それは、既に行われたことなので、むしろ、ジャーナリズムが、なぜそれを題材として選び、どのような手法で表現するかに着目したいと思う。

なぜなら、アートも、ジャーナリズムも、表現される言葉や作品の裏側にあるメッセージに目が向けられなければ、あまり意味がないと思うからだ。


マルセル・デュシャンの表現主題
デュシャンは、大量生産された、何処にでもあるはずの既製品をオブジェとして美術展に出展することで、アーティストとしての自身の価値と既製品のタグ付けを行ってみせた。そのタグ付けの瞬間に、既製品は、「デュシャンが、権威ある美術展に出展したオブジェ」となった。ちなみに、そのオブジェは、大量生産された便器であった。デュシャンは、何処にでもある便器でさえ、敢えて取り上げることで、そこに意味付けができることを明示した。

然し、デュシャンは、そのようにして作ったオブジェを複製することはしなかった。つまり、デュシャンの表現主題は、オブジェ(便器)そのものよりも、その裏側に置かれたメッセージにこそ意味があり、オブジェは、そのメッセージに目を向ける為の入口でしかない。

件の番組に置き換えて言えば、取り上げる報道内容(便器にあたるもの)を変えたとしても、報道内容の裏側にある、本来伝えようとするメッセージには目が向けられなくなると、番組そのもの価値(権威や信頼性)を劣化させてしまう、と思う。

僕は、こうした「表現主題の選定」に潜むパターン化を問題として指摘しておきたい。


アンディー・ウォーホールの表現手法
ウォーホールが、シルク・スクリーンを使って表現した、モンロー、プレスリー、毛沢東といったモチーフは、同じポーズ、同じ表情をしている。何度も、何度も繰り返して表現しているのを見せられると、メディアを繰り返し駆使することは、イコンのような単純化された(あるいは、凝縮された)意味を作り上げる手法だと思う。
イコンとは、宗教上の布教活動において、特定の人物の意味付けが行われた結果、聖像(キリストやマリア)のように、絶対視されるような意味を持つイメージのことである。

つまり、ウォーホールは、覚えやすい意味や判りやすい映像を何度も繰り返し見せるという手法が、単純化された意味付けが行うことを明示した。

件の番組に置き換えて言えば、モチーフ(報道内容)がなんであれ、単純化された文言や映像を繰り返す番組進行のパターン化は、すべてのモチーフ(報道内容)を単純化してしまうだけでなく、そこに参加する人物にまで、単純化された意味を与えるように思う。

僕は、こうした「表現手法の選択」に潜むパターン化を問題として指摘しておきたい。


アートであれ、ジャーナリストであれ、他人からの強要ではなく自らの意志で表現すること、言葉を発することが本懐ではないだろうか。その為には、安易なパターン化を選択することは、自殺行為に近いものと考えるべきではないだろうか。

0 件のコメント: