2010年3月30日火曜日

ソーシャル・キャリアーの活性化の条件

よし、まず吐き出してしまおう。

人が何かを呟くには、それ相応のエネルギー消費が必要になる。同様に、情報を理解するにも相応のエネルギー消費が必要になる。つまり、受け取った情報の価値があるか、ないかを判定するソーシャル・サブスクライバーは、この2つのエネルギー消費量を足し合わせたエネルギー消費に見合う情報が目の前に提示されることを心待ちにしている。

次のやりとりは、ある意味で、ここに書き留めたい活性化の秘訣のすべてがある。
あるダイエット希望のおばさまのインストラクターへの言葉。「あ、キツいのは駄目。楽しく身体を動かしたいのよ。」
おばさまがダイエットしたいのは、自他ともに認めるところだが、おばさまにも分かっていることがある。運動はするべきだと理解していても、ツライと感じてしまうと止めてしまう事。このおばさまの心の動きは、多くの人の心の動きに通じている。

ソーシャル・ジャーナリストの発信する情報は、ソーシャル・サブスクライバーの潜在的なニーズに近いはずだ。少なくとも、優れたソーシャル・ジャーナリストは、ソーシャル・サブスクライバーの興味ベクトルに細心の注意を払っている。つまり、政治分野の情報を欲している人には政治分野の情報を提供しようとするし、スポーツ分野の情報を欲している人にはスポーツ分野の情報を提供しようとするだろう。

もっとも、ソーシャル・ジャーナリスト自身が、そうしたソーシャル・サブスクライバーの欲する領域に精通する知識や経験を持っていなければ、この一連の試みは簡単に頓挫してしまう。だから、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、「メッセージのベクトルと持続性」が何処に向かっているのか、をよく知っていることが最重要課題であることは、もはや疑いようも無い。
欲するものを与えよ。
ローマ帝国支配をしていた方々の言葉にも通じるような答えだが、こんなに分かりやすい活性化の条件は無いだろう。

ソーシャル・サブスクライバーにとって、興味のベクトルが同じでも、ベクトルの長さには注意が必要だろう。誰もが、既に知っている情報には、興味は示さない。むしろ、何度も同じ情報を見せられると嫌気がさしてしまい、逆効果になる。

ソーシャル・キャリアーの活物質的な役割」のなかで、電池に喩えて説明したが、ここでも電池に喩えて考えてみよう。

電池は、「電子」の池。電池の基本的な仕組みは、「特殊な溶液」に2本の電極を差し込むことで、電流は流れる。つまり、電子が、「正極(一本目の電極)」から「負極(二本目の電極)」に向かって移動することで「電流」が得られる。但し、この「正極」と「負極」の間に「適切な電位差」がないと「電流」を得ることできない。

電池に使われる特殊な溶液とは、前述の「欲するもの」になる。ソーシャル・ジャーナリストは「正極」であり、ソーシャル・サブスクライバーは「負極」にあたり、両者の間を移動する情報に「適切な電位差」がなければ、化学反応は起きない。つまり、ソーシャル・キャリアーという新たな物質を得ることはできない。

では、ここでいう「適切な電位差」とは何だろう?

冒頭の心得に従って、まず吐き出してみる。
知っていることから始めよ
これを僕の言い方で表現すると、「知の好適距離(間合い)」を取るということになる。いずれにせよ、ソーシャル・キャリアーの活性化の条件には、
  • 欲するものを与えよ。
  • 知っていることから始めよ
があることを吐き出しておく。

冒頭のおばさまの欲求は、正に、この2つに言及している。そして、おばさまが活性化するには、この条件を満たしていなくてはならない。

そして、「知の好適距離(間合い)」については、後ほど、もう少し噛み砕いていこう。

2010年3月29日月曜日

マクロ・ミクロ・メタ的な空間からのパラフレーズ。

例えば、社会学者、細菌学者、哲学者のような人達が、それぞれの専門的な話をすると途端に難しくなる。

言語の次元」で書いた言葉を用いて言う(ほら、こう書いただけで途端に難しくなる表現には、記号のような言葉が使われることが多い)と、彼らは、もっぱら四次言語を使って、専門的な会話をする。つまり、一般人からすると、記号のようなコトバに置き換えて話をするので、それを聞かされる人間からすると、自分たちの生活の何処でそれが起きているのか、想像がつかないことが多いのだろう。

社会学者は、自分たちの目線を遥かに超えて、実体として捉えようの無いマクロな空間の話をしている。細菌学者は、私たちの目につくところ、例えば、手のひらの上にあっても極端に小さすぎて見えない、ミクロな空間の話をしている。哲学者は、誰もが考えること、思いつくようなことなんだけど、その都度、その考えや精神的な状態を留めて、この感覚ですと説明できない、メタな空間の話をしている。

私たちの生活は、こうした特殊な専門領域を持つ人達の言語で溢れ返っていて、なぜ「言語の次元」をパラダイム・シフトできないのか?と思うことがある。

僕は、異なる次元間のパラダイム・シフトをパラフレーズすることが出来ないか?と常々考えている。難しい問題や出来事であっても、どんなことでも「知る」ことはとても大切なこと。「知らない」ことについては、誰も話をすることさえ出来ない。

今、僕の一番興味のある、自然言語解析が用いられる領域は、より大きな格差を生み出す為にではなく、より大きな共通理解を得る為に役立てられるべきだと思う。

若い子たちの間ではやる言葉や、ネットワーク上で使われる言葉も、その使われている空間を少し飛び出すと、ここにあげたような問題に遭遇することになる。

とは言え、どんな時も、自ら学ぶ機会を失うようなことをしてはならない、と思う。共通理解を得ることを諦めてしまうと、何も始まらない。だからこそ、それができずに、対立した関係が生まれる時、いつも、どうしたものかと虚しさを感じる。

「マス・メディア」という流通システム

例えば、価値のない商品を大量、かつ、広域に送ることのできる流通システムがあったする。然し、その流通システムで輸送される商品が価値がないのであれば、流通システムは不要と多くの人が思うことだろう。

価値のある商品を送ることができるからこそ、流通システムという巨大な社会基盤を維持する価値がある。

仮に、そうした流通システムによって届けられるものが、商品ではなく情報であるならばどうだろう?情報は、受け手の置かれた立場や文脈の中で、有益であったり、無益であったりする。その為、流通システムによって大量の情報が届けられれば、それを受け取る者は、その中に「価値のある情報(メッセージ)」を見つけることができるかもしれない。
学生時代(約20年前)、毎週のように「ぴあ」という情報雑誌を買い、紙面を埋め尽くす小さな文字列をスキャナーのように走査して、まだ見たことの無い映画上映をみつけると、赤ペンを使ってブックマークしていた。
今の時代、コンピュータの検索機能などが使えないのであれば、大量の情報のひとつひとつ目で追って、その中から一部の価値のある情報を取り出せと言われると、僕自身閉口してしまうだろう。実際、そこまでして欲しいと思う情報ならば、流通システムにのせる前にフィルタリングしてくれよ、その分の料金は払うから、という気持ちになる。それができないなら、インターネットで検索するのが当たり前だと思う。

今、巨大な情報流通システムを持つ、新聞やテレビの経営者達は、僕の学生時代には何を考えていたんだろう。僕の学生時代は、バブルと呼ばれた時代のまっただ中にあったはずだが、僕の受けた最大の恩恵は、膨大の映画を見ていたという記憶しか無く、今以上にテレビは見なかったから、トレンディードラマの話をする同年代が宇宙人に見えていた。

新聞やテレビの経営者のトップに座った人達は、20年前にどれだけの希望や夢を抱いて、この日本を変えていこうと思ったのか?

ボコッと膨れ上がるはずの好奇心が、萎えていく気がする。

ソーシャル・キャリアーの活物質的な役割

ある物質が溶けた液体に電極を差し込むと化学反応が起きて、電気が発生する。
電池が化学反応で起こることは知っている。マンガン、水銀、アルカリ、リチウムなど、液体に溶けている物質ばかりに目が行きやすい。ん。でも、良い電極が見つかると、より良い電池ができるはず、だよね。良い電極になるような物質は、「活物質」と呼ばれている。

Twitterを眺めてながらつらつらと考えていると、ボコッと来た。

Twitterの呟きが急激に増える時間帯がある。盛り上がる話題がある。
そんな現象はなぜ起こるのだろうか。

メッセージのベクトルと持続性」の中で、ソーシャル・サブスクライバーがソーシャル・キャリアーになる瞬間について考えていた時、どこかモヤモヤするものがあった。
ソーシャル・ジャーナリズムの空間」における「活物質」とはなんだろうか?
ある物質が溶けた液体とは、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」。
液体に蓄えられた電子とは、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」に存在するひとりひとりが感じている「思い」のようなものに紐づけてみる。
しかし、これだけでは電気は発生しない。つまり、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」でも、ひとりひとりの思いが、それぞれの呟きとなって飛び交うようにはならない。
電池の場合、電極を差し込むことで化学反応が生じる。その結果、電子が流れ始める。
この状態を「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」に置き換えて考えてみる。
「電極を差し込む瞬間」とは、ソーシャル・ジャーナリストによって情報発信が行われる瞬間であるはず。然し、「情報が生まれる瞬間」と化学反応が起きることを拙速に結びつけようとして、踏みとどまる。「価値のある情報(メッセージ)」が無いところにベクトルは無い。だから、化学反応を起こしている「活物質」は、「ソーシャル・キャリアー」なんだ。ソーシャル・キャリアーが反応しないことには、化学反応は起きないんだ。

ん?じゃあ、なぜ、すべてのソーシャル・サブスクライバーが、ソーシャル・キャリアーにならないのだろうか?うーん。疑問をパラフレーズしてみよう。なぜ、一部のソーシャル・キャリアーだけが、ソーシャル・ジャーナリストの情報発信に反応するのだろうか?

うーん。そうか。なるほど。
僕が、Twitterにハマってしまった訳が見えてきた気がする。

よし。「ソーシャル・キャリアーの活性化の条件」については、後ほど噛み砕いていこう。

2010年3月28日日曜日

メッセージのベクトルと持続性

「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」における「情報が生まれる瞬間」とは、その情報が、ネットワーク上に存在する最初の瞬間であり、ソーシャル・ジャーナリストによって情報発信が行われる瞬間である。一方、「情報が死ぬ瞬間」とは、ソーシャル・サブスクライバーが、ソーシャル・ネットワーク・サービスにアクセスし、情報受信を行う瞬間である。

真の意味での「情報が死ぬ瞬間」とは、情報がネットワーク上から消えてなくなることだが、ソーシャル・ネットワーク・サービスのなかでは、情報が無くなること自体は原則としてあり得ない。だから、「情報が死ぬ瞬間」とは、情報の受け手の意識から忘れ去られる瞬間であり、情報の受け手が、「価値の無い情報(ノイズやスパム)」として受け取る瞬間と言える。

では、「価値のある情報(メッセージ)」として受け取られた場合は、どうなるのだろう?
ソーシャル・サブスクライバーは、ソーシャル・ジャーナリストからけ受取った情報が「価値のある情報(メッセージ)」と考えると、すぐさま、自らが情報の発信者となることができる。僕は、このような振る舞いをするユーザをソーシャル・キャリアーと呼ぶことにする。ソーシャル・キャリアーは、ある意味では、ソーシャル・ジャーナリストが担う役割以上に重要な役割を担っている。なぜなら、ソーシャル・キャリアーは、自らの情報発信に耳を傾けているソーシャル・サブスクライバーたちに、副次的な情報発信を行うからである。

それは極めて興味深い工程となる。
  • 情報をそのまま発信すること
  • 情報を引用し、独自情報やコメントを付加すること
  • 情報を保存すること
  • など
現実世界の出来事について情報発信を行うソーシャル・ジャーナリストの投げた情報は、彼のソーシャル・サブスクライバーによって「価値のある情報(メッセージ)」として受け取られた情報を「第一世代メッセージ」とすると、彼のソーシャル・サブスクライバーによって情報発信が行われ、さらに、ソーシャル・サブスクライバーソーシャル・サブスクライバーによって、「価値のある情報(メッセージ)」として受け取られた情報を「第二世代メッセージ」とする。つまり、「情報が死ぬ瞬間」と同時に、「情報が生まれる瞬間」がおきる。

僕は、「情報のライフサイクル」が持続的に起きていると考える。

このように情報の発信と受信が連鎖的、間欠的、偶発的に起きることで、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」は、小さなネットワーク単位から派生的に広がりを見せていく。現実世界で起きた事件が、ソーシャル・ジャーナリストによって、ソーシャル・ネットワーク・サービス上で情報発信されると、ユーザからユーザへの数珠つなぎにメッセージが伝承されはじめる。

ここで、「ユーザを繋ぐネットワーク構造」について触れたことを思い出して頂きたい。

「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、人は、「インターネット型ネットワーク」で繋がっていることから、情報発信者でありながら、情報受信者であるという奇妙な現象が起こりえる。「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、どの情報が有益であるかの判断は、情報受信者であるソーシャル・サブスクライバーに委ねられているので、「価値のある情報(メッセージ)」は、情報が消費された瞬間にしか顕在化しない。ところが、ある瞬間突然に、いくつもの世代を超えた情報が、ソーシャル・ジャーナリスト、あるいは、ソーシャル・キャリアーと遭遇することになる。

この瞬間におこる出来事を噛み砕いてみよう。

ソーシャル・ジャーナリスト、あるいは、ソーシャル・キャリアーと再び遭遇した情報は、彼らがそれぞれ発信した情報そのままであることは稀である。むしろ、再び遭遇した情報は、異なった意図を伝えていたり、最初の情報の姿をほとんど留めずにいたりすることもしばしば起こる。然し、多くの場合、再び遭遇した情報は、「価値のある情報(メッセージ)」となるだろう。なぜなら、その情報に再び遭遇することになるまでの経緯、文脈を推し量る手がかりとなるからである。

「価値のある情報(メッセージ)」は、ベクトルと持続性を最大化させる。

つまり、「価値のある情報(メッセージ)」は、これまで、ほとんど接点のなかったユーザにまで、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」の「ベクトル空間」を拡張する。そして、リアルタイムでなくても(ある日、突然思い出したようにでも)、ソーシャル・キャリアーの行為は、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」に広がりを与え、次のソーシャル・サブスクライバーに情報発信を行わせるという点で、情報のライフサイクル持続性が担保されていると考える。

従来のマスメディアでは出来なかったこと

ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、マスメディア以上に有用な情報提供が行われている例も少なくないし、従来のマスメディアでは出来なかったことが頻繁に起きている。
  • 情報表現の非制約
  • 情報配信の非地域依存
  • 情報素材の可参照
  • など
このような視点を中心に、ソーシャル・ジャーナリズムに基づいた報道を見ると面白いのではないだろうか?

情報表現の非制約
情報の形式や量に対する制限が無いこと

情報配信の非地域依存
配信サービスが地域依存が無いこと

情報素材の可参照
編集加工がされていない情報素材が参照可能であること

ソーシャル・サブスクライバー

ソーシャル・ジャーナリズムの空間」の中心には、ソーシャル・ジャーナリストがいる。

そして、才能のあるソーシャル・ジャーナリストのまわりにいるユーザたちは、いつも、彼が発信する情報の有益性を高く評価しており、継続的な情報の受け取り(subscribeすること。予約購読すること)を望んでいることから、僕は、彼らをソーシャル・サブスクライバーと呼ぶ。

Twitter

Twitter は、世界規模の巨大なソーシャル・ネットワーク・サービスである。

また、Twitter は、サーバ・クライアント・システムとして運用されている。

Twitter サービスの利用者は、Twitter サイトのホームページ、または、Twitter 専用(あるいは、Twitter APIに対応した)クライアント・ソフトを使って、Twitter 専用サーバにアクセスする。その際、自らが作成した情報を送信(アップロード)したり、他の利用者が作成した情報を受信(ダウンロード)することができる。自らが作成した情報を送信することを、Twitter では、「Tweet (鳥がさえずることの意味)」と呼ぶことから、情報送信することを「Tweete する」あるいは、「呟く」と表現したりする。

Twitter ユーザならば誰でも、tweet(呟く)ことができる。但し、一度に情報発信できる文字量は、最大140文字の制約がある。この発信内容を「Tweet(鳥のさえずりの意味)」あるいは、「呟き」と表現される。また、文中には、URLなどを使って、ホームページのアドレスを表記したり、ハッシュタグと呼ばれる表記法を用いて、文字とは別に、写真、動画、を添付することができる。

Twitter 専用クライアント・ソフトの多くは、設定された時間間隔に応じて定期的に専用サーバにアクセスし、他の利用者が作成した情報を受信するように自動設定できるようになっている。自動設定の元では、情報受信が自動的に実行されることから、最新情報を常に取得できるようになる。勿論、手動での操作でも、同様に情報受信が行える。

ソーシャル・ネットワーク・サービスでは、Twitterで使われる「Followする」と「Followされる」といった概念がとても重要な役割を果たしている。Twitterでは、「Followする」と「Followされる」は、ユーザ自身と他のユーザとの関わりについて表している。

ユーザは、自身のホームページで、どういったユーザを自分が「Followする」状態にあり、どういったユーザから自分は「Followされる」状態にあるのかを見ることができる。

ソーシャル・ジャーナリズムの空間」におきかえて、「Followする」と「Followされる」といった概念にそれぞれに解説を加えてみる。

Followする
ソーシャル・ジャーナリストに対して、ユーザ自らが、彼のソーシャル・サブスクライバーになる行為をさす。

Followされる
ユーザの発信する情報に興味を持っているソーシャル・サブスクライバーが存在することを表している。

ソーシャル・ジャーナリスト

ソーシャル・ジャーナリズムの空間」の中心には、ソーシャル・ジャーナリストがいる。

ソーシャル・ジャーナリストは、事件や問題が起こると、その背景や関連する事柄を調べたり、関係者にあってインタビュー取材を行ったりする。一連の成果、つまり、テキスト、画像、図版、音声、映像といった素材は、ホームページ、映像配信サービス等の様々なサービスを利用することで、ネットワーク上に置かれる。そして、そういった情報の所在を含めて、ソーシャル・ネットワーク・サービス上で情報発信が行う。僕は、ソーシャル・ジャーナリストの重要な能力のひとつに、こういったネットワーク上のサービスを正しく理解して、効果的に利用する能力が求められると考える。

一方、現実世界で行われてきたジャーナリズムの中で働くジャーナリスト(敢えて、マスメディア・ジャーナリストと呼ぶ)は、事件や問題が起こると、その背景や関連する事柄を調べたり、関係者にあってインタビュー取材を行い、その内容をまとめる。しかし、多くの場合、新聞、テレビ、雑誌などの形式に合わせた情報を作成したり、所謂、「マスメディアの流通システム」を使って配布・送信したりする工程を自分以外の誰かに依存している。

両者の違いは、ソーシャル・ジャーナリストが複数の工程や作業をこなす「多能工」であるのに対して、マスメディア・ジャーナリストは、特定の工程や作業に専門化、分業化した「単能工」であると考える。

ユーザを繋ぐネットワーク構造

ソーシャル・ジャーナリストとソーシャル・サブスクライバーの関係は、サーバ・クライアント・システムのサーバとクライアントの関係にとても似ている。サーバはシステムの中心にある「主」であり、クライアントはシステムの末端にある「従」である。このような主従関係が、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」を構成する最も小さな関係を作っている。実は、この小さな関係がさまざまなネットワーク構造の「単位」となっている。そこで、この小さな関係を「ネットワーク単位」と呼ぶことにする。

ネットワークの専門家たちは、このような主従関係をなすネットワークを「スター型ネットワーク」として分類している。スター型ネットワークでは、スター(星)の中心から外側に、あるいは、外側から内側に向かって情報が伝わる。このネットワークの特性について重要なことは、常に、中心にあるスターは、ハブの役割を果たしており、すべての情報はハブを介してやり取りされる。

ひとりのユーザは、何人ものソーシャル・ジャーナリストのソーシャル・サブスクライバーになることができる。つまり、ひとりのユーザは、何人もの主を持ることができる。また、ソーシャル・ジャーナリスト自身も、別のソーシャル・ジャーナリストのソーシャル・サブスクライバーになることができる。その結果、相互にソーシャル・ジャーナリストとソーシャル・サブスクライバーの関係であったり、何人ものソーシャル・ジャーナリストとソーシャル・サブスクライバーの関係が数珠つなぎになる関係が生まれてくる。

ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、最も小さな関係だけに着目すると、スター型ネットワークであるにも関わらず、俯瞰的に眺めてみると、無数のスター型ネットワークが組合わさった関係になっている。この複雑なネットワークは、インターネットのネットワーク網とよく似ている。そこで、このネットワークを「インターネット型ネットワーク」として分類する。

このようなネットワークの特殊な形態に、「ツリー型ネットワーク」が存在することを書いておく。ツリー型ネットワークも、主従関係が組合わさった構造をしている。そして、すべてのユーザが、情報を受け取り、発信することができる点では、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」と違いは無い。然し、唯一にして最大の違いは、ネットワーク単位で見てみると明らかで、ネットワークとネットワークの繋がりに現れる。

「インターネット型ネットワーク」では、複数のユーザが、ネットワークとネットワークを繋いでいるの(複数のノード)に対して、「ツリー型ネットワーク」では、ただひとりのユーザが、ネットワークとネットワークを繋いでいる(単一のノード)。

こうしたネットワークとネットワークの接点(ノード)の数の差は、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」の極めて重要な特性を生み出している。この点については、後日、噛み砕いてみたい。

情報が死ぬ瞬間

「情報が死ぬ瞬間」とは、「情報が(受信されて)消費される瞬間」をさす。

情報は、情報の受け手によって消費される。つまり、情報の受け手は、情報を消費する時、その情報が有益であると考えれば、情報は「メッセージ」として受け取り、逆に、有益ではないと考えれば、情報は「ノイズ(あるいは、スパム)」として受け取る。

情報が生まれる瞬間

「情報が生まれる瞬間」とは、「情報が発信される瞬間」をさす。

ソーシャル・ジャーナリストの情報発信は、ソーシャル・ネットワーク・サービスから行なわれる。

2010年3月26日金曜日

サーバ・クライアント・システム

サーバ・クライアント・システムとは、ネットワーク上に置かれたサーバに対して、複数のクライアントが接続することで、さまざまなサービスを提供できるシステムである。

例えば、あるクライアントがサーバ上にコンテンツを置いた(アップロード)とすると、別クライアントはサーバに接続して、そのコンテンツを取得すること(ダウンロード)が可能になる。このコンテンツが、テキスト、画像、動画、あるいは、音声であるかは、サーバやクライアント側の処理能力によるもので、サーバ・クライアント・システムの仕組みとしてはどれも同じような原理で動いている。

ソーシャル・ネットワーク・サービス

ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)とは、多くのユーザがインターネットのように巨大なネットワークを介して特定のサーバに接続し、それぞれのユーザが、おのおの特定の相手に対してメッセージを発信(送る)したり、受信(受け取る)したりできるメッセージ・サービスの総称である。

ソーシャル・ネットワーク・サービスも、サーバ・クライアント・システムのひとつである。

辻井伸行

辻井伸行
という名前を聞いて、「ああ」と思う人も多いのではないかと思う。視覚障害者として生まれながら、音楽的才能を開花させ、多くの音楽ファンを楽しませてくれる、とても魅力的な人。

幸せなことに、僕は目が見える。

然し、彼のような音楽の才能があるとは思えない。どれだけたくさんの書物を読むことができたとしても、その文字のうわべの意味だけを追いかけていては、それを表現する者が与えてくれたきっかけを活かすことは難しいのではないか、と思う。

音楽の世界にも、それに通じることが無いかと思ったので、書くことにした。

物理学の世界では、音そのものは、周波数によって表され、人間が聞くことのできる帯域の音が、僕たちの感じることのできる音。つまり、感じた音、音そのものは、「ゼロ次言語」だと判る。音階の中で位置づけられることは、「一次言語」と同じ。勿論、楽譜にあるさまざまな記号(クレッシェンド、フォルテ、メゾピアノ)が加わることで、文脈を添えられると「二次言語」。音楽家と呼ばれる人の中には、楽譜の解釈にもいろいろと通説があるらしいので「三次言語」。そうした演奏や音楽家達をまとめてジャンルのような表現で括られるようになると「四次言語」。と、意外なほどあっさり区分してみた。

視覚障害者には、点字で書かれた楽譜があると聞く。しかし、彼は、そうした楽譜を使っていたのを止めて、別の演奏家に演奏してもらい、自分の耳で聴き、それを暗記して演奏するらしい。それでいながら、楽譜に書かれた音符の忠実な再現をするそうだ。楽譜に書かれた音符の忠実な再現は、演奏家にとっての当然のことなのだが、音楽に通じる人は、そうやって再現される音に、演奏者の解釈が含まれる「音」を楽しみにしながら聴く、という。なるほど。文字通り、「音楽」なんだと思う。

さて、この次元をどうやって説明するべきか。

かつて、「すべての芸術は音楽の境地に憧れる」という言葉を知って、この言葉の意味の深いところを測りようが無かった。何処にいても聞こえてきて、心を引きつけられ、揺さぶられ、聞きながらにして、思わず、自分の感情を表現せずにはいられない衝動に駆られる音楽のことを思ってみたことがある。
彼の音楽を聴いて感じるのは、彼の音に蹂躙されていたいという衝動。

音符という表記を読もうとすることさえ煩わしかったのではないかと邪推する自分に、下を向いてみる。

ソーシャル・ジャーナリズムの空間

ソーシャルジャーナリストの誕生」を読んだ。
この方のブログに触発されて、ボコッと出てきた。
なので書いてみる。
…ソーシャルジャーナリズムは、限りなくローカルなメディアとして機能する。そしてこのメディアのローカル性は、国内、国外いずれにしろ地域性と興味・関心の2軸によって展開していくのではあるまいか。…
ソーシャル・ジャーナリズムが展開される切り口として、「地域性」と「興味・関心」の2軸を取り上げられている。ジャーナリストとその読者の関係を持って、ローカル(地域性)という言葉を使うべきか悩むところだけど、それを含んだとしても、この視点からの読み取りは鋭い。

「興味・関心」が、「地域」に向けられることもあるので、この点を僕なりに補足してみる。
実際、「地域性」という表現を目の当たりにすると、「時間(時代)性」はどうなの?と動物反射的に疑問符がついてしまう。然し、このブログの突こうとしているところは、以下のようにパラフレーズしてみると、合点がいく。
つまり、
  • 「興味・関心」が指すものが、見出し語(Lemma)であり、
  • 「地域性」が指すものが、文脈(Context)
と考えてみる。
コミュニケーションに言語が使われる以上、言語の表層、つまりは、ここでいう見出し語からどんな意味を受け取るかは、パースの記号論を持ち出すまでもなく、言葉から読み取れる意味は、読み手それぞれの置かれた文脈に依存する。平たく言えば、言葉を受け取った人が思ったことが、その人にとっての言葉の意味である。当然のことながら、同じ興味(文脈)を共有することができる空間では、その興味についてのお話は盛り上がる。

遠藤薫さんは、「ネットメディアと〈コミュニティ〉形成」の序章を、カントの言葉から始められている。
カントはかつて空間を「共存の可能性」(共生の原則をさす。空間に同時に存在する実在が完全な相互作用をすることをさす)と定義した。
このカントの言葉を借りれば、ソーシャル・ジャーナリズムの空間とは、こうした文脈を共有する者達が不完全な相互作用をする空間と言い換えてもよいのではないか、と思う。ある瞬間、同じような興味を持った者が、偶然、そこに集っていると言えば、それだけのことでもある。

一義的に考えれば、ソーシャル・ジャーナリズムの空間では、ソーシャル・ジャーナリスト(情報の送り手)の発する言葉がこの空間の中心にある。この空間のそれ以外の住人は、ソーシャル・サブスクライバー(情報の受け手)である。非実在住人である側面と、現実世界にある地域(空間)の実在住人であるというハイブリッドな関係を持っている。そして、それぞれが、現実世界との関わりを通じて、ひとつひとつの言葉の真偽を精査しながら、その結果を極めて民主的な裁決として下す。それが、ソーシャル・ジャーナリズムの空間への自由な出入りと言える。
勿論、そういった空間での盛り上がりを聞きつけて、やってくる方も多いだろう。そして、そういう人は、その空間で話されている言葉が、自分の置かれた文脈と違うと思えば、その空間から出て行くだろうし、その空間に馴染めば、そこに留まることだろう。

然し、このように、一義的に考えることは拙速であると思っている。

ソーシャル・ジャーナリズムの空間では、ソーシャル・ジャーナリストは、常に集団リンチのような言葉の突き上げに食らう可能性にさらされている。すべてのソーシャル・サブスクライバーが、自らが「理解する」までを目的として、ソーシャル・ジャーナリストの話に耳を傾けているかは怪しいが、ソーシャル・サブスクライバーは、特定のソーシャル・ジャーナリスト>の声だけに隷属している訳ではない。また、情報の送り手と受け手の関係が逆転することだって十分にあり得る。つまり、ソーシャル・サブスクライバー>も、自らが主体的に情報を発信することで、ソーシャル・ジャーナリズムの空間の主となり得るからだ。

また、この逆のことにも触れておく。ソーシャル・ジャーナリストもまた、ひとりのソーシャル・サブスクライバーを主とするソーシャル・ジャーナリストの空間のソーシャル・サブスクライバーのひとりである自覚を忘れてはならない。多くのソーシャル・サブスクライバーからの話を聞くことを怠れば、ソーシャル・ジャーナリスト自身が硬直的な異語同意を繰り返しかねないジレンマに陥る。
「ややこしい。ネット上の空間」
それは、非実在の世界の話と思うかもしれない。

しかし、僕は、現実世界との差は、あまり無いと思う。ネット上の空間と現実世界との間には差があると感じている人がいるとすれば、
  • 意識的に行動するか
  • 無意識的に行動してしまっているか
この違いについて考えてみて欲しい。

この空間にハマってみて気づくことがある。それは、僕の置かれた文脈から発せられる、僕自身の言葉のリアルさを共有しているかのように望むソーシャル・サブスクライバーの存在だ。自分と同じようなことを考えている人がいる。この空間にいると、そうした感覚を何度となく感じるようになる。
でも、こんな感覚は、ファミレスでも、風呂屋でも、床屋でも、井戸端会議が行われている空間から漏れ聞こえてきた言葉に感じていた感覚と同じじゃ無いか、と今更ながらに思う。
ソーシャル・ジャーナリズムの空間とは、「亜共存の法則」が成り立つ空間
では無いかと思う。

ここで疑問をお持ちの方は、まずは、Twitterを体験してみると良い。

2010年3月25日木曜日

言語の次元

君と僕は、同じ言葉を使って話しているからきっと僕が感じたこと、思ったことを言葉にすれば、それが君にも伝わり、君と僕は思いを共有できるはず…。
自分以外の誰かと意思疎通でぶつかると、こうした仮定があまりにも無力で、無意味だと痛感する。

言語には、いくつかの次元があるように思う。

ゼロ次言語
言葉が十分に通じないような外国人との会話でも、意思疎通ができることもある。「これ」「それ」「あれ」「どれ」といった「こそあど言葉」が示す、今、会話をしている当事者が共有している空間にあるモノ(実体)の話はうまくいくことが多い。とりあえず、こうしたほとんど言葉に依存せずに会話する際、そこに使われる言語を「ゼロ次言語」と呼んでみる。

ゼロ次言語は、対象を指差すことで表すことも可能なので、言語と呼ぶべきか悩むところだから「ゼロ」としてみた。

一次言語
英語の授業を一通り受けた後、テストシーズンを迎え、英語の試験を受けると、辞書の丸覚えにも等しい、通り一遍の意味を答えさせる問題にぶつかる。試験でどのような成績を収めても、実際に会話ができるかどうかは分からない。然し、ひとつの単語にひとつの意味のような関係で成立する言語を「一次言語」と呼んでみる。

二次言語
英語の試験も、より実践的な試験になると、時事問題など現在起こっている事柄を英語で考えさせる問題が出てくる。この場合、一般的に通説とされる解釈と異なる解釈が存在することを知っていても、試験の時には、通説とされる解釈を答えとして書かないと、正解とされない。こうした問題と正解の関係にある言語を「二次言語」と呼んでみる。

三次言語
さまざまな事象を眺めて、前提の傾向や対策といった考え方をまとめることが要求される場合、広くは、企画書を制作したり、調査資料を作ったりする場合、そうした内容について議論するには、それ相応の専門的な知識や経験が要求される。言い換えれば、その言語を自由に操れていても、分かる人には分かる言語を「三次言語」と呼んでみる。

このように、次元が高くなるに連れて、現実に存在する事柄よりも、より抽象的な言語になってきていると理解してもらえるだろうか。

四次言語
実は、僕たちの使う言葉の中で、これまで述べたどの次元の言語にも当てはまらない言語が存在するとすれば、この「四次言語」だと思う。学者や哲学者が使う言葉は、僕たちの生活にどのように活かせばいいのか分からないことがある。然し、彼らは、ひとつひとつの言葉に意味を与え、それを計算式のように必要な時に持ち出しては、その言葉に込められた複雑な意味を普通に話し始める。

おさらいのつもりで、りんごについて考えてみる。

  • 目の前にあるりんご。(ゼロ次言語)
  • Apple。バラ科の落葉高木。(一次言語:辞書の定義)
  • りんごが落ちるのを見て、ニュートンは閃いた。(二次言語:通説)
  • 肉と一緒に煮込んでやると適度な酸味がつくので喜ぶ人が多い。(三次言語:料理人の経験に基づく知識)
  • APPL(四次言語:Nasdaq市場におけるApple Inc.の表記記号)

多くの人は、こうした言葉の使い分けを無意識にできているのかもしれないけど、僕は、何かについて話そうとする時、今、どの次元の言語を使うべきか、しばしば悩む。僕として、言葉が誰にでも同じように伝わることはあり得ないことを心に留めておきたい。