2010年3月29日月曜日

「マス・メディア」という流通システム

例えば、価値のない商品を大量、かつ、広域に送ることのできる流通システムがあったする。然し、その流通システムで輸送される商品が価値がないのであれば、流通システムは不要と多くの人が思うことだろう。

価値のある商品を送ることができるからこそ、流通システムという巨大な社会基盤を維持する価値がある。

仮に、そうした流通システムによって届けられるものが、商品ではなく情報であるならばどうだろう?情報は、受け手の置かれた立場や文脈の中で、有益であったり、無益であったりする。その為、流通システムによって大量の情報が届けられれば、それを受け取る者は、その中に「価値のある情報(メッセージ)」を見つけることができるかもしれない。
学生時代(約20年前)、毎週のように「ぴあ」という情報雑誌を買い、紙面を埋め尽くす小さな文字列をスキャナーのように走査して、まだ見たことの無い映画上映をみつけると、赤ペンを使ってブックマークしていた。
今の時代、コンピュータの検索機能などが使えないのであれば、大量の情報のひとつひとつ目で追って、その中から一部の価値のある情報を取り出せと言われると、僕自身閉口してしまうだろう。実際、そこまでして欲しいと思う情報ならば、流通システムにのせる前にフィルタリングしてくれよ、その分の料金は払うから、という気持ちになる。それができないなら、インターネットで検索するのが当たり前だと思う。

今、巨大な情報流通システムを持つ、新聞やテレビの経営者達は、僕の学生時代には何を考えていたんだろう。僕の学生時代は、バブルと呼ばれた時代のまっただ中にあったはずだが、僕の受けた最大の恩恵は、膨大の映画を見ていたという記憶しか無く、今以上にテレビは見なかったから、トレンディードラマの話をする同年代が宇宙人に見えていた。

新聞やテレビの経営者のトップに座った人達は、20年前にどれだけの希望や夢を抱いて、この日本を変えていこうと思ったのか?

ボコッと膨れ上がるはずの好奇心が、萎えていく気がする。

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