例えば、社会学者、細菌学者、哲学者のような人達が、それぞれの専門的な話をすると途端に難しくなる。
「言語の次元」で書いた言葉を用いて言う(ほら、こう書いただけで途端に難しくなる表現には、記号のような言葉が使われることが多い)と、彼らは、もっぱら四次言語を使って、専門的な会話をする。つまり、一般人からすると、記号のようなコトバに置き換えて話をするので、それを聞かされる人間からすると、自分たちの生活の何処でそれが起きているのか、想像がつかないことが多いのだろう。
社会学者は、自分たちの目線を遥かに超えて、実体として捉えようの無いマクロな空間の話をしている。細菌学者は、私たちの目につくところ、例えば、手のひらの上にあっても極端に小さすぎて見えない、ミクロな空間の話をしている。哲学者は、誰もが考えること、思いつくようなことなんだけど、その都度、その考えや精神的な状態を留めて、この感覚ですと説明できない、メタな空間の話をしている。
私たちの生活は、こうした特殊な専門領域を持つ人達の言語で溢れ返っていて、なぜ「言語の次元」をパラダイム・シフトできないのか?と思うことがある。
僕は、異なる次元間のパラダイム・シフトをパラフレーズすることが出来ないか?と常々考えている。難しい問題や出来事であっても、どんなことでも「知る」ことはとても大切なこと。「知らない」ことについては、誰も話をすることさえ出来ない。
今、僕の一番興味のある、自然言語解析が用いられる領域は、より大きな格差を生み出す為にではなく、より大きな共通理解を得る為に役立てられるべきだと思う。
若い子たちの間ではやる言葉や、ネットワーク上で使われる言葉も、その使われている空間を少し飛び出すと、ここにあげたような問題に遭遇することになる。
とは言え、どんな時も、自ら学ぶ機会を失うようなことをしてはならない、と思う。共通理解を得ることを諦めてしまうと、何も始まらない。だからこそ、それができずに、対立した関係が生まれる時、いつも、どうしたものかと虚しさを感じる。
追記。自然言語解析では、「無い」の対語にはたくさんの表現があることをご存知だろうか?「虚しさ」と書いた後、これは「無い」に近い意味だった、と思い出してこの段落を書き足してみた。
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