真の意味での「情報が死ぬ瞬間」とは、情報がネットワーク上から消えてなくなることだが、ソーシャル・ネットワーク・サービスのなかでは、情報が無くなること自体は原則としてあり得ない。だから、「情報が死ぬ瞬間」とは、情報の受け手の意識から忘れ去られる瞬間であり、情報の受け手が、「価値の無い情報(ノイズやスパム)」として受け取る瞬間と言える。
では、「価値のある情報(メッセージ)」として受け取られた場合は、どうなるのだろう?ソーシャル・サブスクライバーは、ソーシャル・ジャーナリストからけ受取った情報が「価値のある情報(メッセージ)」と考えると、すぐさま、自らが情報の発信者となることができる。僕は、このような振る舞いをするユーザをソーシャル・キャリアーと呼ぶことにする。ソーシャル・キャリアーは、ある意味では、ソーシャル・ジャーナリストが担う役割以上に重要な役割を担っている。なぜなら、ソーシャル・キャリアーは、自らの情報発信に耳を傾けているソーシャル・サブスクライバーたちに、副次的な情報発信を行うからである。
それは極めて興味深い工程となる。
- 情報をそのまま発信すること
- 情報を引用し、独自情報やコメントを付加すること
- 情報を保存すること
- など
僕は、「情報のライフサイクル」が持続的に起きていると考える。
このように情報の発信と受信が連鎖的、間欠的、偶発的に起きることで、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」は、小さなネットワーク単位から派生的に広がりを見せていく。現実世界で起きた事件が、ソーシャル・ジャーナリストによって、ソーシャル・ネットワーク・サービス上で情報発信されると、ユーザからユーザへの数珠つなぎにメッセージが伝承されはじめる。
ここで、「ユーザを繋ぐネットワーク構造」について触れたことを思い出して頂きたい。
「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、人は、「インターネット型ネットワーク」で繋がっていることから、情報発信者でありながら、情報受信者であるという奇妙な現象が起こりえる。「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、どの情報が有益であるかの判断は、情報受信者であるソーシャル・サブスクライバーに委ねられているので、「価値のある情報(メッセージ)」は、情報が消費された瞬間にしか顕在化しない。ところが、ある瞬間突然に、いくつもの世代を超えた情報が、ソーシャル・ジャーナリスト、あるいは、ソーシャル・キャリアーと遭遇することになる。
この瞬間におこる出来事を噛み砕いてみよう。
ソーシャル・ジャーナリスト、あるいは、ソーシャル・キャリアーと再び遭遇した情報は、彼らがそれぞれ発信した情報そのままであることは稀である。むしろ、再び遭遇した情報は、異なった意図を伝えていたり、最初の情報の姿をほとんど留めずにいたりすることもしばしば起こる。然し、多くの場合、再び遭遇した情報は、「価値のある情報(メッセージ)」となるだろう。なぜなら、その情報に再び遭遇することになるまでの経緯、文脈を推し量る手がかりとなるからである。
「価値のある情報(メッセージ)」は、ベクトルと持続性を最大化させる。
つまり、「価値のある情報(メッセージ)」は、これまで、ほとんど接点のなかったユーザにまで、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」の「ベクトル空間」を拡張する。そして、リアルタイムでなくても(ある日、突然思い出したようにでも)、ソーシャル・キャリアーの行為は、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」に広がりを与え、次のソーシャル・サブスクライバーに情報発信を行わせるという点で、「情報のライフサイクルの持続性」が担保されていると考える。
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