2010年3月26日金曜日

ソーシャル・ジャーナリズムの空間

ソーシャルジャーナリストの誕生」を読んだ。
この方のブログに触発されて、ボコッと出てきた。
なので書いてみる。
…ソーシャルジャーナリズムは、限りなくローカルなメディアとして機能する。そしてこのメディアのローカル性は、国内、国外いずれにしろ地域性と興味・関心の2軸によって展開していくのではあるまいか。…
ソーシャル・ジャーナリズムが展開される切り口として、「地域性」と「興味・関心」の2軸を取り上げられている。ジャーナリストとその読者の関係を持って、ローカル(地域性)という言葉を使うべきか悩むところだけど、それを含んだとしても、この視点からの読み取りは鋭い。

「興味・関心」が、「地域」に向けられることもあるので、この点を僕なりに補足してみる。
実際、「地域性」という表現を目の当たりにすると、「時間(時代)性」はどうなの?と動物反射的に疑問符がついてしまう。然し、このブログの突こうとしているところは、以下のようにパラフレーズしてみると、合点がいく。
つまり、
  • 「興味・関心」が指すものが、見出し語(Lemma)であり、
  • 「地域性」が指すものが、文脈(Context)
と考えてみる。
コミュニケーションに言語が使われる以上、言語の表層、つまりは、ここでいう見出し語からどんな意味を受け取るかは、パースの記号論を持ち出すまでもなく、言葉から読み取れる意味は、読み手それぞれの置かれた文脈に依存する。平たく言えば、言葉を受け取った人が思ったことが、その人にとっての言葉の意味である。当然のことながら、同じ興味(文脈)を共有することができる空間では、その興味についてのお話は盛り上がる。

遠藤薫さんは、「ネットメディアと〈コミュニティ〉形成」の序章を、カントの言葉から始められている。
カントはかつて空間を「共存の可能性」(共生の原則をさす。空間に同時に存在する実在が完全な相互作用をすることをさす)と定義した。
このカントの言葉を借りれば、ソーシャル・ジャーナリズムの空間とは、こうした文脈を共有する者達が不完全な相互作用をする空間と言い換えてもよいのではないか、と思う。ある瞬間、同じような興味を持った者が、偶然、そこに集っていると言えば、それだけのことでもある。

一義的に考えれば、ソーシャル・ジャーナリズムの空間では、ソーシャル・ジャーナリスト(情報の送り手)の発する言葉がこの空間の中心にある。この空間のそれ以外の住人は、ソーシャル・サブスクライバー(情報の受け手)である。非実在住人である側面と、現実世界にある地域(空間)の実在住人であるというハイブリッドな関係を持っている。そして、それぞれが、現実世界との関わりを通じて、ひとつひとつの言葉の真偽を精査しながら、その結果を極めて民主的な裁決として下す。それが、ソーシャル・ジャーナリズムの空間への自由な出入りと言える。
勿論、そういった空間での盛り上がりを聞きつけて、やってくる方も多いだろう。そして、そういう人は、その空間で話されている言葉が、自分の置かれた文脈と違うと思えば、その空間から出て行くだろうし、その空間に馴染めば、そこに留まることだろう。

然し、このように、一義的に考えることは拙速であると思っている。

ソーシャル・ジャーナリズムの空間では、ソーシャル・ジャーナリストは、常に集団リンチのような言葉の突き上げに食らう可能性にさらされている。すべてのソーシャル・サブスクライバーが、自らが「理解する」までを目的として、ソーシャル・ジャーナリストの話に耳を傾けているかは怪しいが、ソーシャル・サブスクライバーは、特定のソーシャル・ジャーナリスト>の声だけに隷属している訳ではない。また、情報の送り手と受け手の関係が逆転することだって十分にあり得る。つまり、ソーシャル・サブスクライバー>も、自らが主体的に情報を発信することで、ソーシャル・ジャーナリズムの空間の主となり得るからだ。

また、この逆のことにも触れておく。ソーシャル・ジャーナリストもまた、ひとりのソーシャル・サブスクライバーを主とするソーシャル・ジャーナリストの空間のソーシャル・サブスクライバーのひとりである自覚を忘れてはならない。多くのソーシャル・サブスクライバーからの話を聞くことを怠れば、ソーシャル・ジャーナリスト自身が硬直的な異語同意を繰り返しかねないジレンマに陥る。
「ややこしい。ネット上の空間」
それは、非実在の世界の話と思うかもしれない。

しかし、僕は、現実世界との差は、あまり無いと思う。ネット上の空間と現実世界との間には差があると感じている人がいるとすれば、
  • 意識的に行動するか
  • 無意識的に行動してしまっているか
この違いについて考えてみて欲しい。

この空間にハマってみて気づくことがある。それは、僕の置かれた文脈から発せられる、僕自身の言葉のリアルさを共有しているかのように望むソーシャル・サブスクライバーの存在だ。自分と同じようなことを考えている人がいる。この空間にいると、そうした感覚を何度となく感じるようになる。
でも、こんな感覚は、ファミレスでも、風呂屋でも、床屋でも、井戸端会議が行われている空間から漏れ聞こえてきた言葉に感じていた感覚と同じじゃ無いか、と今更ながらに思う。
ソーシャル・ジャーナリズムの空間とは、「亜共存の法則」が成り立つ空間
では無いかと思う。

ここで疑問をお持ちの方は、まずは、Twitterを体験してみると良い。

0 件のコメント: