2010年3月26日金曜日

辻井伸行

辻井伸行
という名前を聞いて、「ああ」と思う人も多いのではないかと思う。視覚障害者として生まれながら、音楽的才能を開花させ、多くの音楽ファンを楽しませてくれる、とても魅力的な人。

幸せなことに、僕は目が見える。

然し、彼のような音楽の才能があるとは思えない。どれだけたくさんの書物を読むことができたとしても、その文字のうわべの意味だけを追いかけていては、それを表現する者が与えてくれたきっかけを活かすことは難しいのではないか、と思う。

音楽の世界にも、それに通じることが無いかと思ったので、書くことにした。

物理学の世界では、音そのものは、周波数によって表され、人間が聞くことのできる帯域の音が、僕たちの感じることのできる音。つまり、感じた音、音そのものは、「ゼロ次言語」だと判る。音階の中で位置づけられることは、「一次言語」と同じ。勿論、楽譜にあるさまざまな記号(クレッシェンド、フォルテ、メゾピアノ)が加わることで、文脈を添えられると「二次言語」。音楽家と呼ばれる人の中には、楽譜の解釈にもいろいろと通説があるらしいので「三次言語」。そうした演奏や音楽家達をまとめてジャンルのような表現で括られるようになると「四次言語」。と、意外なほどあっさり区分してみた。

視覚障害者には、点字で書かれた楽譜があると聞く。しかし、彼は、そうした楽譜を使っていたのを止めて、別の演奏家に演奏してもらい、自分の耳で聴き、それを暗記して演奏するらしい。それでいながら、楽譜に書かれた音符の忠実な再現をするそうだ。楽譜に書かれた音符の忠実な再現は、演奏家にとっての当然のことなのだが、音楽に通じる人は、そうやって再現される音に、演奏者の解釈が含まれる「音」を楽しみにしながら聴く、という。なるほど。文字通り、「音楽」なんだと思う。

さて、この次元をどうやって説明するべきか。

かつて、「すべての芸術は音楽の境地に憧れる」という言葉を知って、この言葉の意味の深いところを測りようが無かった。何処にいても聞こえてきて、心を引きつけられ、揺さぶられ、聞きながらにして、思わず、自分の感情を表現せずにはいられない衝動に駆られる音楽のことを思ってみたことがある。
彼の音楽を聴いて感じるのは、彼の音に蹂躙されていたいという衝動。

音符という表記を読もうとすることさえ煩わしかったのではないかと邪推する自分に、下を向いてみる。

0 件のコメント: