2011年8月18日木曜日

次の首相に何を求めるか?

「次の首相に何を求めるか?」
そんなタイトルが眼に飛び込んできた。

ニュースサービスから送られてくるメールの表題なのだが、その文字が意味すること、つまり読者に何を期待しているのかが分からなかった。つい最近、「ゲーミフィケーション」という言葉を何度か聞いていたので、表題を見た時に「新しいゲームのボスキャラの必殺技でも公募しているのか?」と勘ぐってしまったことを最初に暴露しておく。

ちなみに、ゲーミフィケーションとは、まだ新しいバズワードなので、インターネット上でも明確な定義を探すことはできないようだ。そこで、いくつかのブログ等を読み漁ってみてまとめると、
「ゲーミフィケーションとは、特定サービスの継続的利用を促すために、サービス利用者の利用状況に応じた評価が与えられるようなゲーム性を導入すること」
のような定義になった。

さて、日本の政治システムが「代表民主制」であることから、首相の選出に直接有権者が係わることはできない。また、与党の政党内部で党代表選挙の結果が、事実上の首相選出になることから、マスメディア報道がそうした選挙の有権者、つまりは、与党政党の党員であり、投票資格者に対して訴える情報であるならば、より具体的な政策内容に踏み込んで主張することが重要であるように思う。つまり、ニュースサービスの読者が考える政策内容を問うようなことをしたとしても、そもそもの政策内容を理解していないうちから、その政策内容を批判することはできないからである。

このようなニュース報道の問題は、随分と長い間当然のように行われてきている。テレビであれ、新聞であっても、政策の見出しこそ大きく伝えるが、政策の目的と効果を簡潔にまとめるだけで、その政策の問題点や効率性などが報道されることはない。だから、大本営発表と揶揄する声があっても、それが事実であるので、冒頭の表題を見てもただ首を傾げることになる。

ところが、ゲーミフィケーションというバズワードを介してマスコミ報道が行ってきている現象を改めてみてみると、読者の興味喚起をすることで、今後の関連ニュースに関心を持ってもらうことを意図しているのではないか?と思えてくる。正に、新しいゲームのボスキャラをああだこうだと勝手に想像を巡らせて、話題作りをしたところに、実際の首相が決まるとすれば、次に始まるのは、ボスキャラ攻略の弱点探しになる。

そのように捉え直すことができるのであれば、この何代かの日本国総理大臣(首相)の人間性を批難する報道がどれほど多いか、見直してみるのも面白いだろう。

政治家は、具体的な政策を始めるための決定を議会で行っている。既に始まった政策の実行者は公務員(行政官庁のトップに閣僚の名前があるからと言って、彼らに政策を変更する権限がないのは明らかなのだけれど)である。しかし、マスメディア報道は、政策議論が始まっても政策内容の問題点や効率性など、実際の行政窓口に寄せられる不満や苦情、制度そのものの非効率性などに対する訴えを予見するような議論はいっさい行っていない。

日本の政治に関するマスメディア報道の目的は、政治システムではなく政治家を対象として苦情を言いたい人たちの為に作られた「政治家批判サービス」のように思える。
政治家批判サービスでは、サービス利用状況に応じて、政治家個人の批判すべき問題がたくさん得られるようになっています。(政治システムや政策内容に関連する情報はサービス対象外ですので、ご注意ください。)
 そして、このサービスには、ゲーミフィケーションのような考え方が、随分と巧みに利用されているように思う。
継続的なサービス利用を頂くことで、政治家の攻略方法や隠しコマンド(スキャンダル)をいち早く知ることができ、自分が政治家の不正を暴いたという優越感に浸ることができるという特典があります。
そして、この最近、急激にこうしたゲーミフィケーション的なサービスの中に取り込まれつつあるのが、ソーシャル・ネットワーク・サービスではないだろうか?せっかくなので、以下のように但し書きをつけていくことが親切ではないかと思う。
ソーシャル・ネットワーク・サービスを一緒にご利用頂けるように、リンク情報を提供することになりました。但し、一定期間の掲載後は、リンクが消失されますし、報道内容の情報源が特定できない場合も多くございますので、風評被害の発信者にならないようにご注意ください。
もっとも、個人的に注目しているのは、政治家の問題ではなく、今、議論されようとしている政策の問題点や効率性の問題であったり、既に実施されている行政サービスの問題点や効率性の問題なのだが、マスコミ報道は、なぜか画一化されたように、大本営発表をなぞることに徹している。

このあたりに、ソーシャンル・ジャーナリズムへの拓かれるべき道筋があるのではないかと思う。

小さな世界がダメなのか?


僕たちが生きている世界は、多くの人びととの関わりがあって存在する。

例えば、部屋に閉じこもって生活していたとしても、その部屋を誰かが作ったという事実は変わらないし、衣服や食べものを誰が作ったかいちいち気にするかどうかは別として、そこに人が係わっている事実はかわらない。すべては、自分が意識するかどうかだけの問題なのだ。

ハンナ・アーレントは、自分が他を意識するように、同時に他が自分を意識することで、『世界の一部(of the world)』をなすことができるという。

随分前に、僕は「「悪い記憶」でなければ「良い記憶」なのか?」というブログのなかで、「世界が小さくなっている」と表現した。

このとき、「小さくなっている世界」とは、この世界のすべてをさすのではなく、自分が意識する世界、言い換えれば、「自分が見ている世界(スコープ)」として考えていた。だから「小さな世界」には、自分が意識する「他」が一つしかいない場合もある。逆に、「大きな世界」には、双方に意識し合う複数の「他」が見えていることになる。

しかし、僕なりの考察を進めてきた結果、「世界の大きさ」が小さくても大きくても、その世界を見ている本人にしてみれば、本当はあまり問題じゃないような気がするので、改めて表題に書いたように、「小さな世界がダメなのか?」を考えてみることにした。

以前のブログで触れていた Twitter は、サービスを利用する他のユーザのメッセージを読むことができ、自分が気に入ったメッセージを発信しているユーザを「Followする」ことで、そのユーザが発信するメッセージを継続的に閲覧できるようになっている。「自分が気に入ったユーザをFollowする」という行為が、自分にとって「良い(Followする)・悪い(Followしない)」といった単純化、視覚化されており、「Follows(自分をFollowするユーザ)」や「Followers(自分がFollowされているユーザ)」との関係は、あたかも社会の中で形成される人の繋がりを想起させる(ソーシャル・ネットワーク・サービスと呼ばれる所以)。

ソーシャル・ネットワーク・サービスのようなユーザ相互の繋がった関係は、実際の生活に置き換えてイメージしようとしても、その行為自体は意味がないだろう。なぜなら、現実の人間関係は、アーレントが指摘するように、自他相互に意識することで「世界の一部」になることができるからである(注1)。直感的に言えば、Twitterの「Followする・しない」の操作には、とても短い時間ではあるもののある種の思考(注2)が隠れていることは間違いないだろう。とはいえ、このようなサービスの利用者が増え、相互にFollowするユーザ数が増えたからと言って、「大きな世界」になったと考えるのは間違いだろう。つまり、どれだけ多くのユーザから「Followされる」ことがあっても、その中のひとりの存在さえ意識できないならば、あるいは、その人が自分を意識していないならば、自分のスコープに「他」が見えることないのである。

ユーザ名、本名、メルアド、携帯電話の番号、住所などの連絡先を知ったからといって、「他」を実感できるものではない。それを知っているからと言って、そんな情報は、ほとんどなんの役に立たない。むしろ、相手の存在を確かめたいと一旦思ってみれば、そうした情報は自分を少しも満足させてくれないことに気がつくだろう。

「小さな世界がダメなのか?」と言われれば、「小さな世界」こそ、自分が「世界の一部」であることを意識する始まりになる。だから「小さな世界」はなによりも大切にされなくてはならない。

自分のスコープにいる「他」の数を数えてみて欲しい。

TwitterのFollowsやFollowersの数がどれだけ大きくても、その人たちは、「その人が見ている世界」に自分の存在を見ていない。Twitterのタイムラインに表示される「他」の呟き(メッセージ)をユーザ名で識別することができても、ユーザ名に紐づけられた本名やメルアドを知っていたとしても、自分のスコープに「他」が見えないように、同時に「他」のスコープにも自分が見えていないのである。それでもなお、自分と「他」が共有している世界について呟いていると感じるなら、自分は「他」がどんな世界に触れて暮らしているかを想像してみるといい。何か見えてくるだろうか?

もちろん、互いの存在を確認しあうには、今までもこれからも、言葉はとても大切なものだ。だから、その言葉をやり取りするきっかけが、ソーシャル・ネットワーク・サービスであってもかまわない。ただし、どれだけたくさんの言葉をやり取りするにしても、「他」の存在を自分で確かめることが大切であり、同時に「他」に自分の存在を確かめてもらうことが大切になる。この二つの存在を確しかめあうことは、「自他」が「いま、ここにいる」という程度の当たり前の意識しか感じさせないだろうけど、「同じ世界の一部」であるという事実を教えてくれるはずだ。

本来、「小さな世界」に見ることができる「他」は、家族や兄弟、近所に暮らす人びとなど、物理的にも近い所にいて、いちいち「同じ世界の一部」であることを改めて確認するまでもないものではないかと思う。しかし、「他」に干渉せず、自分の価値観を自分で見つけることが正しいと言われて育っていくなかで、「世界」に誰の姿も見ることができなくなってしまっている人も少なくはないのではないだろうか。

家族、地域、民族、国など、さまざまな帰属意識が取り上げられて議論されているようだけれど、その帰属する空間に自分を意識してくれる「他」の存在があるのだろうか?そして、その「他」が自分を意識してくれているのだろうか?「小さな世界」があると確信できるならば、「小さな世界」から「大きな世界」にすることは、この「世界の始まり」を築くことに比べればさほど難しいことではないだろうと思う。

注1:「ゲーミフィケーション」のようなバズワードが、このような人の繋がりを作ることに熱中する仕掛けを理解する上では役に立つかもしれないけれど。
注2:「ソーシャンル・ジャーナリズムの空間」を読んでみて欲しい。