2011年8月18日木曜日

小さな世界がダメなのか?


僕たちが生きている世界は、多くの人びととの関わりがあって存在する。

例えば、部屋に閉じこもって生活していたとしても、その部屋を誰かが作ったという事実は変わらないし、衣服や食べものを誰が作ったかいちいち気にするかどうかは別として、そこに人が係わっている事実はかわらない。すべては、自分が意識するかどうかだけの問題なのだ。

ハンナ・アーレントは、自分が他を意識するように、同時に他が自分を意識することで、『世界の一部(of the world)』をなすことができるという。

随分前に、僕は「「悪い記憶」でなければ「良い記憶」なのか?」というブログのなかで、「世界が小さくなっている」と表現した。

このとき、「小さくなっている世界」とは、この世界のすべてをさすのではなく、自分が意識する世界、言い換えれば、「自分が見ている世界(スコープ)」として考えていた。だから「小さな世界」には、自分が意識する「他」が一つしかいない場合もある。逆に、「大きな世界」には、双方に意識し合う複数の「他」が見えていることになる。

しかし、僕なりの考察を進めてきた結果、「世界の大きさ」が小さくても大きくても、その世界を見ている本人にしてみれば、本当はあまり問題じゃないような気がするので、改めて表題に書いたように、「小さな世界がダメなのか?」を考えてみることにした。

以前のブログで触れていた Twitter は、サービスを利用する他のユーザのメッセージを読むことができ、自分が気に入ったメッセージを発信しているユーザを「Followする」ことで、そのユーザが発信するメッセージを継続的に閲覧できるようになっている。「自分が気に入ったユーザをFollowする」という行為が、自分にとって「良い(Followする)・悪い(Followしない)」といった単純化、視覚化されており、「Follows(自分をFollowするユーザ)」や「Followers(自分がFollowされているユーザ)」との関係は、あたかも社会の中で形成される人の繋がりを想起させる(ソーシャル・ネットワーク・サービスと呼ばれる所以)。

ソーシャル・ネットワーク・サービスのようなユーザ相互の繋がった関係は、実際の生活に置き換えてイメージしようとしても、その行為自体は意味がないだろう。なぜなら、現実の人間関係は、アーレントが指摘するように、自他相互に意識することで「世界の一部」になることができるからである(注1)。直感的に言えば、Twitterの「Followする・しない」の操作には、とても短い時間ではあるもののある種の思考(注2)が隠れていることは間違いないだろう。とはいえ、このようなサービスの利用者が増え、相互にFollowするユーザ数が増えたからと言って、「大きな世界」になったと考えるのは間違いだろう。つまり、どれだけ多くのユーザから「Followされる」ことがあっても、その中のひとりの存在さえ意識できないならば、あるいは、その人が自分を意識していないならば、自分のスコープに「他」が見えることないのである。

ユーザ名、本名、メルアド、携帯電話の番号、住所などの連絡先を知ったからといって、「他」を実感できるものではない。それを知っているからと言って、そんな情報は、ほとんどなんの役に立たない。むしろ、相手の存在を確かめたいと一旦思ってみれば、そうした情報は自分を少しも満足させてくれないことに気がつくだろう。

「小さな世界がダメなのか?」と言われれば、「小さな世界」こそ、自分が「世界の一部」であることを意識する始まりになる。だから「小さな世界」はなによりも大切にされなくてはならない。

自分のスコープにいる「他」の数を数えてみて欲しい。

TwitterのFollowsやFollowersの数がどれだけ大きくても、その人たちは、「その人が見ている世界」に自分の存在を見ていない。Twitterのタイムラインに表示される「他」の呟き(メッセージ)をユーザ名で識別することができても、ユーザ名に紐づけられた本名やメルアドを知っていたとしても、自分のスコープに「他」が見えないように、同時に「他」のスコープにも自分が見えていないのである。それでもなお、自分と「他」が共有している世界について呟いていると感じるなら、自分は「他」がどんな世界に触れて暮らしているかを想像してみるといい。何か見えてくるだろうか?

もちろん、互いの存在を確認しあうには、今までもこれからも、言葉はとても大切なものだ。だから、その言葉をやり取りするきっかけが、ソーシャル・ネットワーク・サービスであってもかまわない。ただし、どれだけたくさんの言葉をやり取りするにしても、「他」の存在を自分で確かめることが大切であり、同時に「他」に自分の存在を確かめてもらうことが大切になる。この二つの存在を確しかめあうことは、「自他」が「いま、ここにいる」という程度の当たり前の意識しか感じさせないだろうけど、「同じ世界の一部」であるという事実を教えてくれるはずだ。

本来、「小さな世界」に見ることができる「他」は、家族や兄弟、近所に暮らす人びとなど、物理的にも近い所にいて、いちいち「同じ世界の一部」であることを改めて確認するまでもないものではないかと思う。しかし、「他」に干渉せず、自分の価値観を自分で見つけることが正しいと言われて育っていくなかで、「世界」に誰の姿も見ることができなくなってしまっている人も少なくはないのではないだろうか。

家族、地域、民族、国など、さまざまな帰属意識が取り上げられて議論されているようだけれど、その帰属する空間に自分を意識してくれる「他」の存在があるのだろうか?そして、その「他」が自分を意識してくれているのだろうか?「小さな世界」があると確信できるならば、「小さな世界」から「大きな世界」にすることは、この「世界の始まり」を築くことに比べればさほど難しいことではないだろうと思う。

注1:「ゲーミフィケーション」のようなバズワードが、このような人の繋がりを作ることに熱中する仕掛けを理解する上では役に立つかもしれないけれど。
注2:「ソーシャンル・ジャーナリズムの空間」を読んでみて欲しい。

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