2010年11月16日火曜日

地上波テレビが賢くなる日…

TechCrunchで、グーグル社のCEO、エリック・シュミットがグーグル・テレビ(Google TV)について語っていた。

Schmidt On Google TV Network Backlash: We’re Taking Dumb TV And Making It Smart

短い記事だったので、ポイントになるところを僕なりに翻訳してみる。

「ただ映像を流し続けるだけの地上波テレビ放送が、インターネットの双方向によって賢くしようとしていますよね?(“you’re taking a dumb television and making it smart”)」 
と質問されて、
「ええ。僕たちは確信犯です。(“Yes, we’re guilty of that,”)」
「大手の米国テレビネットワークは、自分たちのビジネスモデルを変えないと、膨大な広告収入が無くなるのではないか?と気になっています。("the networks seem to be concerned that the enormous revenue streams targeted at these dumb televisions will go away if they change the model.")」
「インターネットを使って議論されるようになると、視聴者は、もっとテレビを見るようになるでしょう("people will watch even more television if it’s augmented with the Internet.")」
「出版社(コンテンツ制作会社)は、時勢にあったドラマを付け加えるような良い仕事を行ってきています。そして、グーグルやテレビネットワークは、より短いつながりで全体をスムースに(繋げようと)しています。("the press has done a good job of adding drama to the situation, but he believes that Google and the networks will smooth all this over in relatively short order.")」
「(Google TVがもたらす)世界観は、僕たちが、地上波テレビが流す番組と出版社が作り出すドラマのようなデータの所在を明らかにしようとすることで確約されるのです。(“The ones that have reservations we’re trying to address that with data,”)」
といった感じですね。

日本の地上波テレビが、まだ面白いと感じている人がどれだけいるかはさておき、こうした技術革新の波が、遅かれ早かれ、日本の地上波テレビの世界にも影響を与えることと思う。もっとも、その際、そこに関わっている人たちが、これまでのように高収入でいられるか?は、別問題になる。

つまり、ここに情報がありますよ!と、宣言できることがマスメディアの特権だったことが失われる日は近づいている、ということ。

「尖閣諸島のビデオ流出事件」によって明らかになったことを考えてみるといい。

僕たちは、撮影された素材のすべてが国民に開示されないと大騒ぎしているマスメディアが正しいような議論につきあっている。でも、マスメディアは、実際に撮影した素材のすべてを開示したことはない。

ネットワーク上に全ての情報が開示されるようになる未来、膨大な情報の中の、この部分が問題の箇所ですと教えてくれるような情報の在処を明らかにすること。これが、Google社の考えているサービスの実体ではないだろうか?

2010年5月2日日曜日

クライメート事件 -フィンランド教育に学ぶ

その問題は、ジャーナリストの岩上安身氏の「呟き」から始まった。
先ほど、記者見習いの須藤君が、帰って来て今日の学術会議の報告。それが、実にショッキング。まず、クライメート事件について。ICPP(気候変動に関する政府間パネル)から、漏洩した情報が、事実である、ということ。

「呟き」を噛み砕く。
この「呟き」の主要なキーワードを抽出してみる。
  • 「記者見習いの須藤君」
  • 「今日の学術会議」
  • 「クライメート事件」
  • ICPPIPCC(気候変動に関する政府間パネル)から、漏洩した情報が、事実である」
その上で、ひとつひとつを噛み砕いてみる。


記者見習いの須藤君
岩上氏のお弟子さん?つまりは、ジャーナリスト?


今日の学術会議
「今日(2010年4月30日)」の「学術会議」と「検索」してみると、以下の「呟き」が近しいように思われる。
4月30日(金)午後に日本学術会議が公開シンポジウム「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)問題の検証と今後の科学の課題」を開催。15時から「IPCC 問題が問いかけるもの:科学的作業、情報・倫理、科学者の行動規範」 http://bit.ly/daIWsW #f_o_s
この「呟き」に「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)」というキーワードが含まれることから、どうやら日本学術会議が主催した「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)問題の検証と今後の化学の課題」と題された公開シンポジウムのことらしいと推定。


クライメート事件
クライメート事件」については、いろいろな情報がインターネット上に存在するようだ。
Climatic Research Unitメールハッキング事件 - Wikipedia

このビデオは、2009年11月23日、米国Foxニュースが放送したものを、2009年11月26日に日本語字幕が添えられてアップされている。

是非、観て欲しい。


IPCC(気候変動に関する政府間パネル)から、漏洩した情報が、事実である
まず、このシンポジウムが、
IPCC(気候変動に関する政府間パネル)問題の検証と今後の科学の課題
と題されていることから、日本の学術関係者たちがこの問題についてある認識する為に催されたと認識する。


僕は何から、それを学ぶのか?
僕自身は、岩上さんの呟きを見るまで、この問題について何も知らなかった。

僕の認識は、「地球温暖化」と言っても、科学的に評価できる統計値が限られていることから、どの時点、どの期間を基準として「温暖化」と呼ぶべきか、とても怪しいこと。それを踏まえて、「地球温暖化」という仮説がある、という認識だった。

また、温暖化の原因の全てがあたかも排出される二酸化炭素にある、とする議論そのものには興味がない。然し、副次的に、二酸化炭素削減の為に、緑化に努めようとする気運が高まることには好意的なので、「地球温暖化」の極論には反対でも、総論として得られる方向性に同意しているまでだ。

そこで、一般的な考えを探るのに、「気候変動」から連想して「地球温暖化」と「検索」し、次のページを読んでみる。
地球温暖化 -wikipedia
こちらは、環境省サイトの次のホームページ。
地球温暖化の科学的知見
IPCC第4次評価報告書について
なるほど。環境省は、今日(2010年5月2日)時点でさえ、「IPCC問題」を認めることをしていない。

然し、どうも解せない。

環境省としては、見識者たちの考え、つまりは、日本学術会議が主催したシンポジウムの内容を踏まえて発表するというつもりなのか?

そもそも、「IPCC問題」は無かったものとして放置するには、時間が経ちすぎてはしないか?

岩上さんは、後に続く「呟き」でこのように述べている。
続き。このクライメート事件とは、「地球が温暖化している証拠などないのに、政治的な思惑によって、温暖化が進んでいる、という宣伝が行われている」という内部情報が洩れた事件。これは、欧米では大変なスキャンダルとして扱われたが、日本ではメディアが積極的にとりあげようとはしなかった。
確かに、日本のメディアが取り上げなかった。


こうした状況を踏まえると、2009年12月09日 12時00分更新の池田信夫氏の投稿。
「クライメートゲート」事件が壊すマスメディアの情報独占
これは、いけてる。

図は、Wikimedia Commonsより

この他にも、データをグラフにするとき気温を高く見せるスクリプトが発見されている。またIPCCの結論と異なる論文を発表した学術誌“Climate Research”から査読委員を引き上げる話が出ている。IPCCの研究者はよく「懐疑派の研究は学術誌には出ていない」とその信用性を否定するが、このように組織的に懐疑派の論文を排除する工作が行なわれていたわけである。
見事に、「IPCC問題」を暴く証拠を挙げている。


フィンランド教育に学ぶメディア・リテラシー
フィンランド教育に学ぶメディア・リテラシー」のなかで紹介した2つの算数の
問題。
5+6=?
?+?=11
「IPCC問題」が起きた原因は、「地球温暖化」に関わる問題が、前者のような問題として扱われることを意図した為ではないだろうか?と思う。

だからこそ、僕は、岩上さんの「呟き」に始まる一連の問題を、後者のような問題として考えたい。

つまり、受け取った問題の答えとなるような要素の組み合わせについて、あれこれと考えを巡らせてみたいと思う。
  • なぜ、環境省は、「IPCC問題」を公式に認めないのか?
  • なぜ、マスメディアは、一連の問題を報道しないのか?
  • なぜ、これだけの時間が経過しているのか?
  • なぜ、国際的な日本企業は沈黙したままなのか?
  • なぜ、データのグラフ化に不正が行われる必要があったのか?
  • なぜ、こうした問題が、今頃になってシンポジウムが開かれたのか?
  • 等々
僕たちは、フィンランド教育に携わる先生の気持ちになって、生徒たちが出してくる答えや、周囲の人の「呟き」について考える必要がある。

ソーシャル・ジャーナリズムの世界では、情報を受け取って、それが自分にとって有益であるかどうかを判断するのは、自分自身だ。

その事を伝えたくて、敢えて、このようにまとめてみた。

2010年4月29日木曜日

「悪い記憶」でなければ、「良い記憶」なのか?

Twitterのようなソーシャル・メディアによって、
世界はどんどん小さくなっている。
勿論、実体としての現実世界の大きさはなにも変わらない。

然し、ソーシャル・メディアを介して、現実世界では出逢う機会などあり得ない人と出逢うことは、これまでになかった特別なことに違いない。その上で、自分と出逢った相手との共通する価値観に気づけば、これまで遠い世界の果てにあった相手をとても身近に感じるようになり、自分と世界との繋がりが密接にあるように感じる。

一方、こうした出逢いが生まれる同じ空間で、自分の価値観と異なる人間を反射的に切り捨てるようなことをしていると、
世界はますます大きくなってしまう。
つまり、ある価値観で対立したとしても、相手の存在を既に知ってしまった上で、意識的に相手の存在を遠ざけることは、自分と世界との繋がりは疎遠にあるように感じさせる。


若者はなぜ生きづらいのか?
社会学者の鈴木謙介さんへの乾広輝さんのインタビュー記事、「若者はなぜ生きづらいのか?」に、
…高度成長を前提にしたライフスタイル…
…ほんの数十年の間に起こった出来事を、僕らは“普通の生き方”と認識してしまった。具体的には、「いい学校に入れば、いい会社に入れて、老後までいい生活が送れる」というものですね。今の若い人はそうしたモデルをあまり信用していませんが、それ以外の生き方を思い描くことができないので、どうしていいか分からない。…
とあった。
人は、自分が経験した「良い記憶」に基づいて行動する。
自分が経験した「良い記憶」を持っている親が、自分の子供に、特定の行動をとるように促したとしても、何も不思議はない。そして、子供の立場からすれば、親が用意してくれた現在の生活、あるいは、その事実を否定するモノは何もない。だけど、親の経験に匹敵するほどでなくても、自分自身の経験を元にしなくては、行動に踏み出せないことも容易に想像がつく。

記事は、
1世代だけだったら、お父さんと子どもの違いだけで良かったんですが、2世代またいでしまうと、「おじいちゃんもお父さんもそうだったけれど、自分は違う」という形で、“普通”イメージが強化され、ますますモデルが見えにくくなってしまう…
と指摘している。

親の立場からすれば、自分が生き抜いてきた経験が「良い記憶」という場合も多分にあるだろう。然し、子供の立場からすれば、親たちが言う“普通”イメージに共感を覚えないのだと思う。

日本システムのゾンビ化
記事には、他の国々の事情とは異なり、長い期間に渡って日本の雇用システムが維持されてきた指標として、以下の「完全失業率の推移」のグラフが添えられている。


鈴木さんは、家庭、企業、地域、国といったある規模の生活圏を一つのシステムとして捉えているようだ。その上で、若者たちが、
不景気になればなるほど、システムを批判するのではなく、システムに自分を合わせようとしてしまう。
と指摘する。

先進国における完全失業率の推移を比較すると、日本は、欧米のような浮き沈みこそ数値となって現れていないが、徐々に疲弊してきている状況にあることが判る。

記事は、
…大学2~3年ぐらいまでは調子いいことを言っていた奴が、3年の夏ぐらいから突如真面目な就活生に変わってしまうという(笑)。そういう学生の状況が、システムがいかにゾンビ化しているかを、物語っていると思います。
と締めくくる。

あれ?…どこかに通じる記憶。

それは、20年以上も前、就職活動をしていた頃の記憶。それと変わらないではないか。
なるほど。
要するに、衰退するシステムに合わせてきた国民の姿だけは、今も昔も変わらない、ということか。


「悪い記憶」でなければ、「良い記憶」なのか?
はて。どこか、引っかかる。
こうした社会を生き抜いてきた親たちにとって、そうした経験は「良い記憶」なのだろうか?
就職できた。生活できる。
確かに、家庭や企業をはじめとして、どのようなシステムにも関わることができない最悪な状態を逃れた結果は、「完全失業率のグラフ」となって現れている。 
「悪い記憶」で無いことは「良い記憶」なのか?
「コミュニケーション・モデル」では、「離脱」が起きない間は、コミュニケーションが継続していると考えた。その立場からは、「悪い記憶」がない限り、「離脱」は表面的に現れることはない。

否。「離脱」は増えている。



世界を小さくする術
ふと、意地悪な仮説を立ててみる。

Twitterにおいて、それぞれが匿名を名乗るユーザとして親子が出会う場合、どんな状態になるのだろうか?

価値観の相違に気づくことで、ふたりの親子の心の距離は大きく開いてしまうのだろうか?仮に、そうなってしまうと、二人の親子は、二度と交わり合うことがない「大きな世界」にそれぞれが生きていくことになる。

でも、仮に、互いの価値観の相違に気づいたとしても、別の価値観として近しいものを見つけることができたとしたらどうだろう?

そうなれば、ふたりの心の距離は縮まり、世界は小さくなるのではないだろうか。

どのような世界、どのようなシステムにおいても、
ひとつだけの価値観に限定しまわないこと
が、大切だと思う。

2010年4月28日水曜日

Facebookを使った呼びかけ -米国高校生たちの抗議集会-

米国のニュージャージー州の高校生たちが抗議集会を行った記事がネットで見ることができる。
http://mashable.com/2010/04/27/facebook-walkout/

高校生たちは、FaceBook上で、18才の大学生が「来年度の教育予算削減に対する抗議をしよう」と呼びかけたことに応じて集まった。

抗議に参加した参加者たちは、MySpaceやTwitterなどのソーシャル・メディアを駆使することで集まっていった。

Newark students walk out of school, take City Hall


僕は、FaceBook利用者には、「同じ価値観、あるいは、同じ文脈を共有する現実世界の人間関係」がそのまま持ち込まれていること(あるいは、その可能性)を「対等のネットワーク」中でも指摘していたので、このような抗議活動の起点にFaceBookが関与したこと自体、特に驚きはしない。

自分たちの関係が明らかな状態では、それぞれの利害関係が明示的/暗示的にわかる状態にある。その為、打算的な呼びかけや興味本位の発言に呼応して行動することは少なくても、正論と思われるような呼びかけを無視することはなかなか難しいだろう。
もっとも、日本人の感覚に、このような感覚に異論を唱える人もいるかもしれない。然し、少なくとも、開かれた言論の世界では、「沈黙していること」は「反対しない」という意志表示としてみなされる。それが、表現の自由の意味だと言えば、理解してもらえるだろうか?


参加者の感想
以下は、この記事にある抗議活動への参加者の呟き。


これって、ぶっ飛んでる感じ(insanity)。ニュージャージー州の若い世代の一部になれてこれまでこんなに良かったと思うことはなかったわ。一緒に参加した皆を誇りに思う。みんなが美しい。
これだけの高揚感に満ちた経験は、彼女ひとりだけの感想なのだろうか?


共有される価値観
FaceBookから発生したこの手の抗議活動は、ある人たちにとっては、
とても厄介な問題になり得る
と思う。

人は、行動を起こし、その結果にメリットを感じる場合、それは強い「良い記憶」となる。これは、「学習」プロセスの大切なメカニズムになっている。

強力な「良い記憶」は、他の人と共有したいと思う行動を呼び起こす。これが、「パーセプション・モデル」の原理だ。その切り口から見ると、彼女の呟きからは、明らかに「学習」の形跡を読み取れるように思う。

これまで、企業は、自社製品やサービスの美辞麗句を並べ立てるようなコマーシャルにたくさんの予算を割り振り、それらをマス・メディアによって大量に発信してきた。しかし、ソーシャル・メディアは、人と人の関係を凄まじい早さで繋ぐことで、「信頼と評判」で繋がる新しい社会の秩序を作ろうとしている。

僕自身の認識が間違っていなければ、このソーシャル・メディアの時代になる時、その中心にいるのは、この記事にあるような若い世代のはずだ。
この記事に対する評価を自分たちの知識や価値観だけに当てはめて下すことは、本当に正しいのだろうか?
僕は、この記事のような出来事が、今日、僕たちの周りで起きても驚かないだろう。なぜなら、世界にいる人と人は、どんどんと繋がっている。誰かの成功体験、つまり、人に自慢したくなるような「良い記憶」を自分も共有したいと望んでいるのだから。

勿論、最初からそういう価値観を共有することを望んでいない人たちもいる。
だから、厄介なのだ。

2010年4月26日月曜日

フィンランド教育に学ぶメディア・リテラシー

日本とフィンランドの教育」では、簡単な算数の問題も、ちょっと違うようだ。
5+6=?
?+?=11
前者の答えは一つだけ。後者の答えには、多様な組み合わせが存在する。

このような教育方針の元では、学校の先生も、機械的に「答え合わせ」するのではなく、生徒の考え方のひとつひとつを汲み取るようにして採点しないといけない。その結果、生徒は自由な発想から選択し、行動することの楽しさを学ぶのだろう。察するに、フィンランドの教育では、生徒ひとりひとりのリテラシーの向上を目的として、こういった教育に取り組んでいる、と思う。


既に知っている情報
僕たちは、目の前にある情報を「知っている情報」と鵜呑みにしていないだろうか?
5+6=11
と何度も繰り返して教えられてきた人は、
「11」になる答えは?
と聞かれて、
「5」と「6」を足したもの。
と答えたりはしないだろうか?
勿論、
それは間違ってはいない。
然し、「11」という答えになる組み合わせは、無限にある。
1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1=11
1÷1+10=11
111−100=11
1×1+10=11
   :
   :
単純な四則演算の範囲でも、無限に組み合わせが考えられる。

そして、これらの答えは、
どれも正しい。
もし、これらの答えも、場合によっては認めることができなければ、
フィンランドの先生は失格なんだろう。


多様な価値観
現実世界で、ネット空間で、僕たちは、さまざまな情報に接している。

僕たちは、辞書には、多くの言葉に複数の解釈があるのを知っている。また、誰かと話をする時、本や資料を読む時、立場や文脈に応じて複雑な意味があるのも知っている。

普段の生活の中で、ひとつひとつの言葉の微妙な意味を使い分けている。

ところが最近、僕は、自分が捉えていた言葉の意味がどこかズレてしまっているような感覚に陥る時がある。それも、ずっとズレていてくれるのであれば修正もできるのだが、それが違う。

もっともズレて感じるのが、テレビだ。

ずっと気になっていたのだが、テレビから送られてくる情報に対する僕の反応が、どこかぎこちない。それが、年末ぐらいから随分とヒドい。

随分と以前だったら、テレビから送られてくる情報が、
「11」
だったら、
「5」と「6」を足したもの。
と、クイズ番組に答えるように反射的に答えていたものが、
あれ、今日は、「4」と「7」を足したものだったのか…。ふーん。
あれ。今日は、「2」と「9」を足したもの?
あれれ。今日は、「3」と「2」と「6」なの?
近頃では、
「???」
となるような日まである。丸覚えでは通用しなくなってきている。

テレビの中にも、多様な価値観が反映されてきているのだろうか?


メディアの立ち位置(テレビ局としての考え方)
普段の生活で、馴染みの人と話すとき、
あの人は、必ずふざけて間違えて答えるさ。
あの人が、間違うはずが無い。
あの人は、たまに早合点する。
といった具合に話し手の人柄を踏まえて判断することがある。

テレビから送られてくる情報に対して、そんな人柄のようなものを踏まえて判断するようなことはなかっただろうか?
ああ、あった。あった。
アンチ巨人になった人の中には、
「野球の実況中継が余りにも巨人贔屓だから…」
という理由の人は意外と多い。そういう人は、「あのテレビ局では野球中継を観たくない」と言って、テレビを遠ざけはしたが、他の番組ではテレビの前に戻ってきた。

僕自身、ニュースだけは、それなりに信じて観ていた。テレビ局毎に「贔屓」のようなものをそれなりに感じてはいたが、その分を適当に差し引いて観ていれば、それはそれでコトが足りていたからだ。

最近、痛感するのは、
「なんだ。そこを贔屓していたのか?」
と思うようなことが増えた。

それでも、好きずきだからと放っておいたら、どういうことだろう。
「あれ?そっちは、反対していた意見じゃなかったのか?」
という具合になってきた。


自分なりの考え方
算数の問題を解くのではなくて、大人の問題を解くのに、フィンランドの教育から学ぶとすれば、
「それはどういうことなんだ?」
「面白い答えは、なんだ?」
という自分なりの考え方を養うってことではないだろうか?

こういった考え方をテレビに頼ると、
また、丸暗記になってしまう。

2010年4月25日日曜日

「教える」から、「学ぶ」へ

川崎一彦さんのWorldShift Forum / Earth Day Tokyo 2010での講演内容をUstreamで見ることができる。

川崎さんは、15年間のフィンランドに居住されており、フィンランドと日本の教育市場との比較を交えながら、実に興味深い指摘をされている。

フィンランドの教育は、「教える教育」から「学ぶ教育」への意識改革をすることで、PISA(国際学習到達度調査。Programme for International Student Assessment)で高い実績を残すようになった。

「教える教育」から「学ぶ教育」への意識改革とは、どういうことだろうか?

プレゼンテーションの冒頭には、以下のような言葉が並ぶ。
  • 「内容」から「方法」へ
  • 「覚える」から「考える」へ
  • 「画一」から「多様」へ
  • 「KY(空気が読めない)」から「自分の意見」へ
  • 「ダメ人間」から「夢と希望」へ
  • 「想い」から「ことば」へ
  • 「ことば」から「行動」へ
このような切り口から教育現場に置ける意識改革が実践されていったようだ。

ボコッと、沸き上がるものを感じた。

「教える教育」は、先生が一方的に話を続ける退屈な授業のようにも思えるが、「学ぶ教育」は、絵を描いたり、楽器を演奏するように、生徒自身が行動することを通じて周囲の人と対話的することなしには成り立たない。

また、以下のような言い方もできる。

「教える教育」は、画一的な価値観を伝播するマス・メディアに近い。一方、「学ぶ教育」は、好奇心を持って、自ら情報に接しようとするソーシャル・メディアに近いように思う。

「教える教育」から「学ぶ教育」への意識改革とは、「好奇心を育てる教育」を目指していると言えないだろうか?

僕は、情報に価値があるかないかを決める主体は、情報の発信者ではなく、情報の受信者が決めるものだと思っている。

そのことを前提にすれば、より多くの情報に興味が持てるような人財を作ることが、「教育」に求められている。そして、よりたくさんの好奇心を持った人が、より多くの情報に価値を見いだすことができ、新しい社会を築くうえでの礎になれる、と思う。

「教える教育」から「学ぶ教育」への意識改革が進んでいくことを、この日本社会の中でも、是非成功させて欲しいと思う。

続く

2010年4月23日金曜日

対等のネットワーク(peer networks)- FaceBookとTwitter

FaceBookは、Twitterと同じように、ソーシャル・ネットワーク・サービスであり、米国を中心として海外では、とても高い人気を博しているサイトだ。

complete社が提供している2010年3月現在のサイトアクセス解析では、FaceBook社とTwitter社の公式サイトへのユニークビジター数を比較からは、
  • FaceBook 132,040,907
  • Twitter 21,287,217
となっており、圧倒的にFacebook社が優位に見える。

もっとも、Twitter社は、Twitter APIを公開している。その結果、サードパーティーによるさまざまなブラウザが開発されており、ヘビーユーザになればなるほど、さまざまな機能を持ったサードパーティー製ブラウザを使う傾向が高い。実際、Twitter社の発表では、ユーザのトラフィック全体の75%がサードパーティー製ブラウザから行われているそうだ。その為、公式サイトへのユニークビジター数の比較は、余り当てにならない。(それでも、2100万人だけど)

もっとも、FaceBook社の公式サイトへ1億3000万を超えるユニークビジター数があるという事実は、2008年の日本の人口1億2700万人世界10位)であることを念頭に置けば、極めて大きなネットワークが存在していると認識すべきだろう。


FaceBook 社のサービス

FaceBook 社のサービスは、元々、大学内に居住する寮生たちの名簿のようなコンテンツがベースになっている。つまり、現実世界での学生同士の繋がりが、ネット空間に直接持ち込まれた結果、「顔見知り同士のネットワーク」が出来上がった。

FaceBook ユーザは現実世界に存在する人物その人なので、興味本位のなりすましや真偽の不確かな情報の流布を行えば、直接、そのユーザの「信頼や評判」が崩れることになる。その為、そこでやり取りされる情報は、仮に思い込みのようなものであっても、実在する人物から発信された「(信じてみるだけの価値がある)質の高いコンテンツ」になった。また、そのような「(現実世界に存在する人物その人であるという)存在証明」が行われた学生同士の繋がりは、「(ある程度の)信頼に値するコミュニティー」、つまり、ソーシャル・ネットワークになっていった。

FaceBook 社は、2006年9月の一般公開後も、
  • 「質の高いコンテンツ」
  • 「信頼に値するコミュニティー」
の維持に努めて来ている。

FaceBook サービスを利用するには、以下のようにする。

まず、新規登録を行う。新規ユーザは、既存ユーザに知り合いがいるかどうかを確認される。既存ユーザが見つかった場合は、既存ユーザは、新規ユーザに対する「認証」を求められる。この「認証」を行った人間関係は、それぞれのユーザを紹介するページで明示的に表示される。

実は、この「認証」こそ、「信頼に値するコミュニティー」の維持を目的とした重要なプロセスになっている。つまり、既存ユーザは、自らの「信頼や評判」を損なわないように、新規ユーザを確認し、新規ユーザの「存在証明」の役割を担うことを、意識的に、無意識的に求められるからだ。もし、あるユーザが不正な行為をしたとするとどうなるだろう。そのユーザが、あなたを紹介するページで明示的に示されることを想像してみて欲しい。

一方、サービス利用者は、あるユーザと別のユーザとの明示的な関係をみることで、ソーシャル・ネットワークを広げることができる。

携帯電話による存在証明」の中で紹介した「ソーシャル・メディアと携帯電話の関係」のグラフは、FaceBook世代the FaceBook Generation)のような言葉の意味を正に裏付けている。
FaceBook世代 授業中にも携帯電話でのメールを欠かせない世代を指す。
FaceBook社のサービスは、携帯電話を使うことで活発化している。このことは、間違いないだろう。つまり、携帯電話は、FaceBook ユーザたちの繋がる機会創出を行い、より多くの情報とその情報の広がる範囲を拡大させているようだ。

「携帯電話を使ったメール交換が社会問題化した日本」

「携帯電話を使ったメール交換が社会問題化した日本」では、FaceBook ユーザたちの特性を想起しやすいのではないだだろうか?

そこで、FaceBook ユーザの繋がりを乱暴に仮説してみる。

まず、「同じ価値観、あるいは、同じ文脈」を共有する人たちが作る人間関係がある。その人間関係を集団として捉えると、それぞれの集団は、ある価値観を共有しているだろう。例えば、同じ地域の出身であるとか、同じ学問を学んだとか、同じ倶楽部をやっているとか。ただし、この価値観だけでは、ひとつひとつの集団は大きすぎることは間違いない。そこで、価値観、好み、相性のような人間性が大きく関わってくる。そうすると、途端に小さな集団になるはずだ。

ひとつひとつの集団の繋がりは、本来、比較的、安定しているはずだ。集団に関わる人たちが、現実世界からネット世界に移動してくる時期を過ぎると、新規の人間関係が追加される可能性はさほど多くないだろう。しかし、ある集団と別の集団を繋ぐ関係が一つ増えるだけで、人間関係の繋がりは大きく広がることになる。

一方、FaceBookサービスは、ある集団と対立するような別の集団が使うこともあるだろう。
しかし、見方を変えれば、対立軸にある集団は、その対立関係を含めたより大きな集団として捉えることができる。その結果、情報交換をどれだけ頻繁に行うかを別にすれば、FaceBook ユーザの繋がりに、一定の価値観による分類が可能なように思われる。

FaceBook社のGraph APIは、こうしたユーザの繋がりを裏付ける解析に役立つだろう、と思う。


対等のネットワーク

では、ソーシャル・ネットワーク・サービスとして見たとき、
FaceBookは、Twitterよりも優れているのだろうか?
斉藤透さんのブログ「TwitterとFacebook,どちらが世界最大のソーシャル・ネットワークになるのか?」では、後発のTwitter 社の成長が大きく、現在の成長率が半年続くと、月間訪問者数で、Twitter 社が、FaceBook社を追い抜くそうである。

斉藤透さんは、世界最大のソーシャル・ネットワークになる上で、世界中のインターネット利用者(中国を除く)のうち、15億人の上限を前提に話をされている。

勿論、利用者数が多い方が勝ちという判断が、「優れている」を決めることにはならないと思う。

僕は、Craig Newmarkさんの「信頼と評判」の中に出てくる「対等のネットワークpeer networks)」を実現するソーシャル・ネットワーク・サービスにどちらが近いか、という点で、この優劣を判断したいと思っている。
…この時代の終わりまでに、力と影響は、資本とわずかな力を持つ人々から、最も高い評判と信頼のネットワークを持つ人々に大きく変化するでしょう。つまり、対等のネットワーク(peer networks)では、草の根から現れる人々に当たり前のように相談するようになります。
この切り口から両者のサービスを比較してみる。

まず、FaceBookのサービスの本質は、
同じ価値観、あるいは、同じ文脈」に「依存」の人間関係
にある、と思う。

その為、これまでの価値観や文脈を違えることになると、煩わしい人間関係が邪魔になってくる。勿論、そうした対立する価値観を背負って発言することを非難するつもりではない。然し、社会には、さまざまな力関係があり、その力関係の中で、同じ言葉であっても、同じように人の心に届かないことがあるのではないか、と思う。

一方、Twitterのサービスの本質は、
同じ価値観、あるいは、同じ文脈」に「非依存」の人間関係
にある、と思う。

その為、様々な価値観の言葉が飛び交い、同じ言葉でも、意味や解し方を巡って議論が絶えない。勿論、Twitterがそもそも議論をするのに適したツールであるかどうか、は怪しい。然し、Twitterの口コミ的な広がりだけに着目することには、否定的にならざるを得ない。Twitterは、「さまざまな価値観、あるいは、さまざまな文脈」に置かれた人の考え方を教えてくれる。

現在、Twitter 社のサービスには、とても大きな課題がある。

それは、
存在証明」と「匿名
だ。

存在証明」=「実名」と言うつもりは、さらさら無い。

実名」は、「対等なネットワーク」での「対等な会話」を阻害することがある。「実名」であることは、どのような立場からの発言に対しても威圧的な要因になりうる。むしろ、「匿名」のまま発言できる仕組みが残されるべきだ。

総務省が、国民IDの議論に本格的に取り組み始めていることから、「存在証明」を行うことは、比較的近い将来に、実現するかもしれない。

FaceBook社は、ユーザの「存在証明」によって、
  • 質の高いコンテンツ
  • 信頼に値するコミュニティー
を担保してきている。だから、「存在証明」が可能になる時には、必要に応じて、「実名」と「匿名」を選択できるようになるべきだ、と思う。

そうした条件が満たされた場合、ソーシャル・ネットワーク・サービスとして、どちらが優れているか、歴然とした答えが出るだろう、と思う。
見知らぬ人の言葉が、よく知る人の言葉より、必ず優れている保証など無い。
むしろ、問題に対して同じ距離で向き合えることで、得られた情報の価値を冷静に評価できるようになるはずだ。


米国の国会図書館では、「Twitter上で発信されたすべての呟き(Twitter社の創業時に遡ってから現在に至るまでのすべて)を保存すること」を決めたそうだ。

僕は、ソーシャル・ネットワークは、「対等のネットワーク」の中に作られていく、と思う。

2010年4月22日木曜日

インタープリター

最終的な成果物として作られるものが、
  • 「情報的要素」
  • 「ツール的要素」
がきれいに分離できるなんて思ってもいない。

極めて洗練されたインタラクティブなコンテンツを見ていると、表現のモーチフになっていた対象も然ることながら、その空間的な配置、タイミング、色、文字、音、動き、など、とてもたくさんの要素が織り上げられるようにして、独創的な世界観を醸し出す。

こういったものを要素として完全に切り分けること自体、全く意味をなさないと思う。

また、グラフィカル・ユーザ・インタフェース・デザインの分野では、相当の期間に渡って緻密なデザインが行われてきている。さまざまな情報を整然と配置することは、さまざまな「情報的要素」を「ツール的要素」として実装していることと考えている。

例えば、『デザインニング・インタフェース』(オライリー・ジャパン刊)を開いてみれば、ひとつひとつのデザインが単独に存在するのではなく、さまざまな要素と組み合わされることを意図して設計されていることがよく分かる。そうした緻密に積み上げられてきたものを部分的に分解したとして、何の役にも立たない。

それでも、日本語しか読めないユーザだからと言って、日本語以外の表現をすべて禁じることが良い結果を有無とは限らない。ボタンに表記された文字の意味がわからないことで、離脱するようなことは十分考えられる。

巧みに組み合わされた表現であっても、ユーザにとって判る易い「情報的要素」の役割はとても大きい。

あくまでも、「情報的要素」と「ツール的要素」を並べて考えた時に、「情報的要素」から考えることを指摘している。

プログラミングの世界には、「インタープリター」と呼ばれる技術がある。一般的には、プログラミング言語を読み取り、コンピュターに任意の処理を実行させる。自然言語解析という世界では、人間が書いた文章をコンピュータに解析させて、どのような意味を持つ文章であるかを判定できる所まで来ている。

要するに、近い将来、文字などの「情報的要素」から、特定の対象に対する処理を実行させることが可能になる。「情報的要素」そのものが「ツール的要素」になろうとしているのだ。

例えば、Twitter 上の呟きは、現時点では、人と人の情報交換の手段に過ぎないが、こうした技術を応用して利用することで、コンピュータが人の呟きに反応して動作するようになる訳だ。

先日、友人と「どうやって効率的に減量をするか」を話していたら、「ダイエット」について情報発信を行うBotからフォローされるようになった。

こうした事例は、インタープリター技術の初歩的な利用の一つだ。近い将来、リアルタイムに近い処理が行われるようになっても不思議ではない、と思う。

信頼と評判:力と影響を再配信すること - Craig Newmark

連日のように、マスメディアでは世論調査が報道されている。

携帯電話とインターネットを利用した電話サービスが普及していること、共働き世帯が急激に増えてきていること、等を総合的に考えると、平日、一般の電話契約者だけを対象にした世論調査を行ったとしても、どれだけの信頼を置くことができるのだろう。健康な人であれば、仕事が休みと言っても、まず自宅にこもっていることは無いだろう。だから、社会的な状況を考えれば、こうした調査方法に何処までの信頼を置くことができるか疑問に思う。

そこで、Craig Newmarkさんが書かれた、「Trust and reputation systems: redistributing power and influence」というブログを訳してみた。

このブログでは、ネットワーク社会における信頼と評判がテーマになっている。しかし、現実世界でさえ、調査を行っている相手が誰であるか、「存在証明」が正しく行われているかさえ怪しい。Craig Newmarkさんが指摘するように、どのような調査が信頼に値するかどうかは、結局のところ、人間の本質を反映するものだとは思う。だからこそ、それを踏まえた上での提言が行われていることは興味深い。

それでは、はじまり。

Trust and reputation systems: redistributing power and influence
by Craig Newmark, APRIL 6, 2010
People use social networking tools to figure out who they can trust and rely on for decision making. By the end of this decade, power and influence will shift largely to those people with the best reputations and trust networks, from people with money and nominal power. That is, peer networks will confer legitimacy on people emerging from the grassroots.
人は、意思決定するにあたり、誰が信頼に足り、当てにできる人物かを推し量るのに、Social Networking Toolを使っています。この時代の終わりまでに、力と影響は、資本とわずかな力を持つ人々から、最も高い評判と信頼のネットワークを持つ人々に大きく変化するでしょう。つまり、対等のネットワーク(peer networks)では、草の根から現れる人々に当たり前のように相談するようになります。
This shift is already happening, gradually creating a new power and influence equilibrium with new checks and balances. It will seem dramatic when its tipping point occurs, even though we're living through it now.
この変化は既に起こっていて、徐々に、新しい抑制均衡(checks and balances)に基づいた新しい力と影響の均衡(equilibrium)を作り始めています。現在、私たちはその変化の中を生き抜いていながらも、その変化のテッピングティッピングポイント(its tipping point)が起こる時には、劇的なモノのように思うでしょう。
Everyone gets a chance to participate in large or small ways, giving a voice to what we once called "the silent majority."
すべての人が、かつて、“モノ言わぬ大衆”と呼ばれたことについて、多かれ少なかれ、モノを言うようになるでしょう。
(Okay, I started with the bottom line. The following is a relatively brief summary of how I got there, deserving much longer treatment from really smart people.)
(よろしい。私は、その大前提で始めました。以下は、本当に賢い人々からより大きなもてなしを受けながら、そこにどうやって辿り着いたか、に関して簡単な要約です。)
When we need help with decision making, we get recommendations from people we trust, that trust built on some combination of personal experience and reputation. That's the way humans work, nothing new about that. We talk about reputation being one's greatest asset.
私たちは、何かを決めるのに助けが欲しいとき、信頼する人の個人的な経験と評価のうえにある信頼にもとづいたオススメをもらいます。それは、人類がやって来たことで、特に新しいことではありません。私たちは、評判が、その人の飛び抜けた強みになることについて話し合います。
Reputation is contextual, that is, you might trust someone when it comes to dry cleaners but not politic. However, I'm going to simplify this thing by avoiding the issue, right now. (Yes, might be short-sighted on my part.) I'll also defer a prerequisite, the need for persistent and verifiable identity, the need to prove you are who you say you are.
評判が、文脈的であり、政治的なものでは無く、合理的に割り切ってきれいなものになるのであれば、あなたは誰かを信頼するのかもしれません。しかしながら、その問題を避けることで、まず、このことを簡略化してみたいと思います。(ええ。私の役割としては、目先のことしか考えていないかもしれません。)持続的で真実であると証明できる身分証明の必要性、あなたは、あなたである言っている人であることを証明する必要性という、前提条件(a prerequisite)に従うでしょう(注1)。
In real life, personal networks are pretty small, maybe in the hundreds. Mass media plays a role in shaping reputation for a small number of people, including celebrities and politicians. A very small number of people have influence in this environment.
現実の生活では、個人的なネットワークはとても小さくて、せいぜい、数百に収まるでしょう。マスメディアは、有名人や政治家を含むわずかな数の人たちから評価をつくる役割を担っています。この世界に影響力を持っているごくわずかな人達です。
Internet culture and technology changes this dramatically:
インターネット文化と技術は、この状況を劇的に変えています。
  • people tend to work with each other
  • people are normally trustworthy
  • despite their large media footprint, there aren't many bad guys out there
  • message spreads quickly
  • message is persistent, it's there forever
  • connectivity is increasingly pervasive
  • people are finding that reputation and recommendation systems can be used to drive a lot of profit. 
  • 人々は互いに作用するようになっています。
  • 人々は普通に信頼に値します。
  • そうした人々のメディアとしての大きな功績(footprint)があるも関わらず、悪い人はあまりいません。
  • 価値のある情報(メッセージ)は素早く広がります。
  • 価値のある情報(メッセージ)は持続的であり、そこに永続的にあります。
  • 結合性は、徐々に行き渡っています。
  • 人々は、たくさんの利益をもたらすようになるはずの、評価と推薦のシステムを見つけようとしています。
Okay, so we want to be able to see who we might be able to trust, maybe by seeing some explicit measurement, or maybe something implicit, like seeing their history, and who trusts them.
ともかく、明快な測定値、あるいは、彼らの履歴と誰がその人達を信用しているかを見るような暗示的な何かを見ることで、私たちは信頼できるかもしれない人に出会えるようになりたいのです。
We already see various forms of reputation and recommendation systems evolve, often with mixtures of pre-selected experts or professionals. Amazon and Consumer Reports Online do a good job of this. (Disclaimer: I'm on the board of Consumers, since their record for integrity is close to perfect.)
私たちは、事前に選ばれたエキスパートやプロが入り交じったりしている、さまざまな形態に進化する評価と推薦のシステムを既に見ています。AmazonとConsumer Reports Onlineは、この良い仕事をしています。(免責条項:私は消費者委員会に参加し、彼らの記録は、ほぼ完璧に近い完全な状態でのので、)
Wikipedia does a very good job of this, mostly by having lots of people keep an eye on articles, particularly the more controversial ones. There are ongoing issues, being addressed in good conscience as people develop new methods to address information quality and reliability.
Wikipediaでは、特により議論を交わされる記事に、たいていの場合、多くの人が注視し続けることで、とても良い仕事がなされています。情報の品質と信頼性に取り組む新しい手段を開発するように人々に本当に呼びかけている、いくつかの継続中の問題があります。
We also see reputation and influence created by persistent works, reflected in social networking sites including Facebook, LinkedIn, and Google Social. Such systems show history and context, which play into trust, and display connections to other people. Those are not trust relationships normally, they're "weak ties" which also play into trustworthiness.
私たちは、Facebook、LinkedIn、Google Socialを含む、ソーシャル・ネットワーキングのサイトの中で反映された、持続的な作業にとって作られる評価と影響を見ています。それらのシステムは歴史とさまざま事象の前後関係(context)を表しています。そして、それらのシステムは信頼されるようになり、他の人達への繋がりを表しています。それらのすべてが、一概に信頼関係ではありませんが、 それらもまた、信頼する価値のあるように機能する、“ゆるい繋がり(weak ties)”なのです。
Cory Doctorow (or here) postulates kind of a trustworthiness currency called "whuffie". You trust someone, maybe want to reward them for something, you give them points. Turns out that there's an experimental repository of whuffie, thewhuffiebank.org. While this sounds facetious, it's a very simple solution to the complex problem of tracking trust.
Cory Doctorow (あるいはここ)は、“whuffie(ウッフィー)”と呼ばれる信頼価値の通貨のようなものの存在を仮定しています。あなたが誰かを信頼しているとして、何かでその人に報いたいとすると、その人にポイントを与えます。thewhuffiebank.orgには、ウッフィーの実験的な貯蔵庫があります。滑稽に聞こえるかもしれませんが、信頼を跡をたどろうとする複雑な問題に対するとても簡素化された答えです。
The most prominent experiment in directly measuring trust is Unvarnished, very recently launched in beta form. You rate what trust you have in specific individuals, and they might rate you. Unvarnished is pretty controversial, and is already attracting a lot of legal speculation. They're trying to address all the problems related to the trustworthiness of the information they receive, and if so, might become very successful.
Unvarnished(飾り気の無い、ごまかしの無い、の意味)は、信頼を直接的に測定しようとする最も卓越した実験です。ベータ版としてほんの最近立ち上げられました。あなたは、特定の個人時に対して何を信頼しているかを評価し、彼らもあなたを評価します。Unvarnishedでは、とても活発な議論がなされていて、既に、合法的な推察(legal speculation)から多くの共感を得ています。Unvarnishedの利用者は、すべての問題を、彼らが受け取った情報の信頼価値に関連づけて取り組もうとしていて、うまく関連づけることができれば、とても成功するかもしれません。
The last raises an issue all such systems have; they might be very easy to game. Any such system is vulnerable to disinformation attacks, wherein smart enough people can figure out how to fake good or bad ratings. There are a number of very successful groups who are really good at such disinformation in conventional media. Often they're called "front groups", "influence peddlers" or "astroturfers." One good watchdog over such groups is the Center for Media and Democracy.
最後に、そのようなシステムは簡単にゲームのようになるかもしれないという問題を挙げておきます。どんなシステムでも誤った情報による攻撃を受けやすく、ずる賢い人達は、どうやって良い評価、悪いは評価を偽るか、考えを巡らしています。従来メディアの誤った情報に長けていている、とても成功しているグループがいます。彼らは、しばしば、“front group(最前線集団)”、“influence peddlers(影響行商人)”、あるいは、“ astroturfers(人工芝)”と呼ばれています。そのようなグループを監視する優秀な番犬が、the Center for Media and Democracyです。
One metric of trust is transitive, that is, the trustworthiness of the people who trust someone. If person A trusts you, and person B trusts A, then that might affect how one measures your trustworthiness. However, that gets real complicated when that web of trust involves seven billion people, or even a few thousand. It's a research problem.
ひとつの信頼の測定基準、つまり、誰かを信じる人々の信頼価値は、推移しやすいものです。もし、Aさんがあなたを信じていて、BさんがAさんを信じているとします。そのことが、第三者が、あなたの信頼価値を測るのに影響を与えるかもしれません。しかしながら、70億人を含む信頼の繋がりとわずか何千人では、本当に難しくなります。
それが、調査の問題です。
How do we trust the custodians of trustworthiness? We need to have some confidence that they're not fiddling the ratings, that they're reasonably secure. After all, trust and reputation are really valuable assets.
どうやって信頼価値の保管人を信頼すれば良いでしょう?私たちは、評価指標は合理的に安全であり、彼らが、その指標を偽っていないと確信を持つ必要があります。
I think the solution lies in a network of trust and reputation systems. We're seeing the evolution of a number of different ways of measuring trust, which reflects a human reality; different people think of trust in different ways.
私は、信頼と評判のシステムのネットワークの中に答えがあると思います。私たちは、異なる信頼測定の方法が進化するのをいくつも見てきており、それは、人間の本質を反映しています。異なる人達は、それぞれ、異なる方法で信頼について考えています。
Also, the repositories of trust information are the banks in which we store this big asset. Like any banks, having a lot of this kind of currency confers a lot of power in them. Having some competition provides some checks and balances.
また、信頼情報の保管場所は、この大きな資産を保存する銀行です。銀行のように、たくさんの種類の信用通貨を持つことは、そこにあるたくさんの力を与えます。ある種の競合を生み出すことで、ある抑制均衡(checks and balances)を生み出します。
We need to be able to move around the currency of trust, whatever that turns out to be, like we move money from one bank to another. That suggests the need for interchange standards, and ethical standards that require the release of that information when requested. Perhaps there's a need for new law in this area.
私たちは、どのような結果になるにせよ、ある銀行から別の銀行へとお金を移動させるように、信頼の通貨を頻繁に移動させることができる必要があります。交換尺度(interchange standard)、要求すれば情報が公開される道徳尺度(ethical standard)の必要性を表しています。たぶん、この領域での新しい法律が必要になるでしょう。
Restating the bottom line: we are already seeing a shift in power and influence, a big wave whose significance we'll see by the end of this decade. Right now, it's like the moment before a tsunami, where the water is drawn away from the shore, when it's time to get ahead of that curve.
大前提を改めると、私たちは、力と影響が変化するのを既に見ていて、この時代の終わりまでに大きな波の意味が分かるでしょう。今は正に、津波の前の瞬間のように、浜から水が遠ざかっている状態であり、その湾曲した部分を正に通り過ぎようとしている瞬間なのです。

以上。

注1:この記述の問題について、日本の事情に照らして考えてみると、国民IDに基づいた「存在証明」と深く関連している、と思う。

Twitterの未来 - Annotations

Twitter launching annotation feature, streaming API

Twitter社が主催した開発者向けのカンファレンスでは、Twitterの未来を暗示するような新しい考えが発表されている。
  • アノテーション
  • ストリーミングAPI

アノテーション

Twitterのタイムライン(TL)に表示される呟きは、サーバから送られてくるファイルの一部を取り出して表示されている。「アノテーション(Annotations)」は、ファイルの一部を拡張して新しい情報を付加する。そうすることで、呟きの文字列の中にメタデータを埋め込むことができるようになる。

これは、決定された仕様ではないが、将来的なセマンティック・ウェブへの対応を睨んだ仕様ということで、JSONやXML形式でのデータの埋め込みが検討されていて、とても興味深い。

ひとつひとつの呟きに対して、このようなメタデータの埋め込みが可能になると、さまざまな可能性が見えてくる。

例えば、ブラウザを操作しているユーザの位置情報を取得しておく。次に、サーバから送られ来たメタデータ情報にある別サーバにアクセスすることで、ユーザの現在の場所から最寄りの店舗情報を参照したり、呟きの中に表示される店舗情報を置換できるようになる。また、状況に応じて、店舗までの誘導を行うことも考えられる。


ストリーミングAPI
現在、Twitterには、
「the Twitter firehose」と呼ばれる「すべてのデータの流れ」
「the spritzer」と呼ばれる「制限されたデータの流れ」
があり、前者は、一部のパートナーのみに開放されており、一般的な開発者は、後者を使うことになっている。

Twitter社は、新たに、「User Streams」と呼ばれる新しいデータの流れを検討してる。この技術が利用されるようになると、IRCのような、よりリアルタイムに近い会話(チャット)を行うことが可能になる。(現在は、Webサービスという技術をベースにしており、設定された一定時間毎にサーバにアクセスを行う、フォローしたユーザの最新の呟きデータを取得している。)


この2つの試みは、Twitter上でやり取りされる「情報の深さ」と「情報のリアルタイム性」を拡張するものと言える。

個人的な経験からすると、「情報のリアルタイム性」の拡張には懐疑的な部分がある。より白熱した議論になればなるほど、「割り込み発言」が起きやすくなる為だ。こうした会話のマナーのようなものも、ユーザ側のリテラシーの問題と言えなくもないが、「遅延によるミスリード(Misread)」でも触れたことだが、現状でも、「クジラ」や「宇宙人」の出現する問題が解消されていないのに、どういうつもりなんだろう、と思う。

一方、「情報の深さ」を拡張することには、大いに賛成だ。むしろ、より積極的に薦めて欲しいと思っている。

多様な価値観を持っている人達が会話をする際、同じ単語でも異なった意味を想起してしまうことで、会話が食い違うことがある。「言語の次元」でも述べてきているように、同じ単語に対して発生する「意味の揺らぎ」を解決するには、敢えて、特定の意味を参照できるようにすることが不可欠だと思う。

世界を編集すること

世界を編集したい
という言葉を聞いたとき、大きな衝撃が走った。

この発言の主は、フリー・ジャーナリストの岩上安身さん

僕たちの生きているこの世界には、次から次へ、新しい事象が現れ、同時多発的にさまざまな事件が発生している。

そのひとつひとつを説明する為に言葉がある。

難解な言葉を噛み砕いて平易な言葉に置き換えることも、そうした難解な言葉で綴られた長い文章を読み解こうとすることも、それを知りたいと思う人の好奇心に依存する。

好奇心がないと、自分の置かれた状況(文脈)やTLの中に突然飛び込んでくる情報を見ても、その情報がどれだけ適当な情報であっても、なにも想起できない。

インターネット上には、ありとあらゆる情報がある。

好奇心さえあれば、ひとつひとつの情報を繋いでいくことができる。
僕は、それが「編集」に繋がる概念だと思う。

岩上さんは、言う。
「…人間は、みんな不完全情報しか認識できないんです、」
なんという認識。

この方の好奇心。否、ひとつひとつの情報を繋いでいこうとする「意志」。すべてが、そうした思いからスタートしていることに、ただただ敬意を表したい。

2010年4月21日水曜日

ヒューマン・センタード・デザイン(3)

ヒューマン・センタード・デザイン(2)」において、以下のように書いた。
どのような大きさのサービスであれ、すべてのサービスは、
  • 「情報的要素」
  • 「ツール的要素」
から構成されている。
しかし、実際にサービスを使う場合、つまり、この2つの要素を使いこなすのは、
ユーザの意志
である。

個人の価値観が多様化してくると、サービスを設計する上で、ユーザをどのように捉えるかが重要な問題になる。

人と人の会話において、会話する相手が変わる度に、自分の表現方法を変えることは難しい。現実世界に目を向けてみると、こうした表現方法を変えることを嫌って、世代間のコミュニケーションに不具合が起きている、ように思う。

ここで、「ユーザ・モデル」として紹介した「ペルソナ」を思い出して欲しい。

「ペルソナ」を使うと、現実世界で起きているコミュニケーション・モデルの不具合をうまく説明できることが多かった、ように思う。


これまで、「サービス」が設計される場合、「サービス」と「ユーザ(サービス利用者)」という関係でコミュニケーションを考えることが一般的であった。

「サービス」提供者は、「ペルソナ」を使って、より多くのユーザの好みにあった表現に創意工夫をこらしてきた。

しかし、さまざまな個人ブログのようなコンテンツをみていると、ブログ・サービス自体に利用者が期待しているものは、ますます、「情報的要素」の比率が高くなってきているように思う。勿論、さまざまなメディアを使いこなして表現されるコンテンツに人気がない訳ではない。

こうした傾向をちょっと説明してみよう。

例えば、ブログ・サービスを中心に見ると、発信者(ペルソナ#A)と受信者(ペルソナ#B)の関係は、以下のようになる。


ペルソナ#A ブログ・サービスが提供されているサーバに、コンテンツをアップロードする。
ペルソナ#B 同じサーバにアクセスを行う。コンテンツが気に入れば、ブックマークを行う。

ところが、厳密には、このコミュニケーション・モデルは、不完全なものと言える。
そこで、次の図を併せてみて欲しい。


ペルソナ#B 検索サービスを使って、ペルソナ#Aのブログを見つけなくてはならない。
では、このふたりのペルソナを繋いだものは何だろうか?
  • 検索に使ったキーワード
  • 検索結果として表示されたブログの抜粋
文字情報がとても重要な役割を果たしている。これは、個人のブログだけ無く、政府、自治体、企業などから発信される情報でも、大きく異なることはないだろう。

折角なので、もう少し理解を深めてみよう。

仮に、ペルソナ#Bもブログによって情報発信をしていたとすると、ふたりのペルソナの関係には、以下のような関係が生まれるかもしれない。



そして、このペルソナの関係を一つのサービスとして表現すると、以下のような図になる。


そう。気づいて頂けただろうか?

これが、ソーシャル・ネットワーク・サービスのコミュニケーション・モデルとなる。

このように、
  • 検索サービスを使ってブログを探して、気に入ったブログ(情報)をブックマークする場合
  • ソーシャル・ネットワーク・サービス上で、フォローしている人の呟き(情報)をリツリートする場合
それぞれのユーザ・ワーク・モデルは、とても似ている。

そして、ペルソナとペルソナ、つまり、ユーザとユーザを繋ぐ場合、「ツール的要素」より、「情報的要素」がより重要な役割を果たしていることが判る。

2010年現在。「ユーザの意思」を決定するには、言語を中心とした「情報的要素」がとても深く関わっている。言語をただの文字や言葉として捉えるのではなく、同じ言葉であっても、さまざまな受けとめられ方があるような、そういった問題についての見識を広めることが重要に思う。

それは、これまでの人類の歴史がそうであったように、余計な衝突を回避させてくれる、と思う。

この問題を解決する為の切り口として、「言語の次元」を読んで頂ければと思う。勿論、この内容がすべての答えになるとは思っていない。実際、言葉が無いことで衝突が起きる場合もあれば、言葉があることで衝突が起きる場合もある。然し、どのような衝突が起きた場合でも、ひとつひとつのことば、その言語の次元を、都度、「パラフレーズ」することができれば、新たな展開が見えてくると思う。

2010年4月20日火曜日

ヒューマン・センタード・デザイン(2)

ヒューマン・センタード・デザイン(1)」からの続き。

「悪い記憶」は、どうして生じるのか?
「悪い記憶」の発生している所を突き止め、そこに具体的な手段を施す必要がある。


俯瞰的な「コミュニケーション・モデル」は、サービスの全体像を把握する上では、とても便利だが、「サービス全体として良質な記憶」を特徴づける為のコンセプトにはなり得ない。
森全体を見て、木が何か、が見えてこなければ意味が無い。
最初に知っておくべきことは、一本の木をどうやって健康的に育てることができるか?では無いだろうか。

パーセプション・モデル」の図を思い出して欲しい。


ユーザの連鎖的な行動は、「パーセプション・モデル」の「記憶層」に記録されたユーザの記憶に依存している。だから、「パーセプション・モデル」の「記憶層」とは、ユーザの記憶が記録されたデータベースのような役割を担っている。

一方、このデータベースに「記憶」が記録される直前の判断は、「経験層」で行われている。特に、「経験層」に対する考え方を決定することが、サービスのコンセプト、あるいは、サービスの方向性を決定づける、と言っても過言ではない。

大きな森の中に生えている一本の木を見るように、サービスを構成する一つの小さなサービスを考えてみると、大切なことが見えてくる。

どのような大きさのサービスであれ、すべてのサービスは、
  • 「情報的要素」
  • 「ツール的要素」
から構成されている。

「情報的要素」には、ある機能を表す語彙のようなものから、機能を解説するための文章、あるいは、商品の魅力を訴求するキャッチフレーズやコピーのようなもの、事故や事件などの真相を解明しようとする記事、ユーザ同士が情報を交換しあう会話のようなものに至るまで、幅広い情報が存在する。勿論、これに加えて、音、音声、音楽、写真、図画、表、なども、情報的要素である。明らかなことは、すべてのユーザの「満足」するような画一的な「情報的要素」は無い、ということだ。

こうした状況において、ユーザに対して適切な「情報的要素」を提供するには、それぞれのユーザが置かれた状況や文脈を解明することが、何よりも不可欠だ。漠然としたユーザ・モデルを精査することも必要だが、なぜ、ユーザが、その情報に興味を抱いたのか?を解明する必要がある。

一方、「ツール的要素」には、ボタンを押すと別のページに飛んだり、商品をカートに入れたり、パスワードを再発行したり、そうした、ある行為とそれに伴う対話的な結果が期待される。この要素を適切に開発することは、ある種の困難が伴う。なぜなら、開発者自身が自らの記憶に照らして、ユーザの「満足」が何か解っているような感覚で開発してしまう可能性があるからだ。「ツール的要素」を適切に開発するには、開発者が錯誤しないように、対象となるユーザが何をしたいと望んでいるか、明確にしておく必要がある。

「情報的要素」と「ツール的要素」。この2つの要素は、「ユーザ・ワーク・モデル」と「システム・ワーク・モデル」のそれぞれの根っこに繋がっている。だから、根本的な解決には、常に先行して「情報的要素」あるいは「ユーザ・ワーク・モデル」に取り組むことから始めるべきだ。

では、ユーザの「満足」はどのように得られるのか?

まず、ユーザに対して「情報的要素」がどのような作用を及ぼすのか、そのことを明確にすべきだ。その答えは、「経験層」が、「操作性・利便性・信頼性」に分かれていることに着目することで見えてくる。「操作性・利便性・信頼性」の3つの評価を阻む要因を見つけ出し、そのひとつひとつに対策を図ることで「悪い記憶」の発生を抑えられ、ユーザが「満足」を得ることができる条件が整うはずだ。
「経験層」を、この3つの過程に分けて評価することで、「情報的要素」と「ツール的要素」のいずれの要素に対してでも、より深く再考できる視点を与えてくれるはずだ。

さあ。これで、問題が見えてきた。

「ヒューマン・センタード・デザイン」のもっともホットで、もっとも重要な課題は、「ユーザ」と「情報的要素」の関係を解明すること。その点は、もはや疑いの余地はないだろう。

続き。

ヒューマン・センタード・デザイン(1)

ここでは、これまで取り上げてきた3つのモデル
の説明を読んで頂いていることを前提に、以下の図を見直してみよう。


対話的なシステムの設計では、しっかりとした「ユーザ・ワーク・モデル」を設計することで、「システム・ワーク・モデル」の完成度が高まる。「ユーザ・ワーク・モデル」は、とても重要な役割を果たしている。


パーセプション・モデル」で説明したように、ユーザの「良い・悪い」の直感的な判断に基づいて、次の行動が決定される。
ユーザが抱く「良い・悪い」の判断は、ユーザの記憶に残り易い。特に注意すべきは、良い記憶よりも、悪い記憶の方が、長くユーザの記憶に残ることだ。逆に、良い記憶は、次の行動に直接的に結びつくので残りにくい。

その連鎖的な行動を図にしてみると、次のようになる。


例えば、ホームページを閲覧するユーザが、いくつものページを移動することを考えてみて欲しい。ひとつひとつのページを遷移する際、「良い記憶」が残ることは大切なことだが、「悪い記憶」が発生する度に「離脱(Break away)」が起こる。これは、サービスにとって、最悪の事態だ。

言うまでもなく、「サービス全体として良質な記憶」は、とても競争力のあるサービスになる。例えば、優れたユーザ・インタフェース・デザインが施された製品を使うと、特別な体験をしたと感じるようになり、やがて、その製品を手放したくない特別な思いになる。
もっとも、このような特別な思いにさせる背景には、「他のサービス(製品)では、こうはウマくはいかなかった」といった「悪い記憶」との比較により「良い記憶」が協調される可能性を指摘しておく。

だからこそ、「サービス全体として良質な記憶」が目指すべき最高峰にあることを忘れてはいけない。


ユーザは、一連のサービスに対して「期待(Expectation)」を抱いて行動を開始し、連鎖的な行動を繰り返す。その結果、ユーザは「期待」に対する結果に「満足」を得ることで、一連の行動が「成功(Success)」したと考える。

「良い記憶」が積み重なって「サービス全体として良質な記憶」が作られるのだから、まず、「悪い記憶」の発生を減らし「離脱」を無くすように取り組まなくてはならない。

続く。

2010年4月19日月曜日

パーセプション・モデル

ソーシャル・メディアの到来により、コミュニケーションは、とても複雑な問題を抱えている。しかし、コミュニケーション・デザインを考える立場からすると、基本的な事柄が特に変わっているようには思わない。

では、何が変わったのか?
人のパーセプション(感じ方)が変わった
のだと思う。

では、これまで述べて来たこと
を前提に話を始めよう。

まず、この図(A図と呼ぶ)は、「コミュニケーション・モデル」のもっとも小さな単位を表している。


次に、この図(B図と呼ぶ)は、「ユーザ・モデル」で示したユーザが実際に操作をする際に、どのような切り口からデザインを考えるかを表している。


パーセプション・モデル
そして、この図(C図と呼ぶ)は、「ユーザ・モデル」で示した以下のB図と同じ時間の流れのなかで起こる、ユーザのパーセプション(感じ方)をもっと砕いた形で表している。これを、「パーセプション・モデル」として考えてみる。

B図が左回りに回るように、時間が流れているのに対して、この図では、上から下に移動する流れがあることに注意して欲しい。

第一層
A図の「期待(Expectation)」と「反応(Response)」が書かれている。但し、「反応」は、最上層にある「評価」と、最下層にある「離脱(Break away)」に分かれていることに注意して欲しい。

第二層
ユーザ・ワーク・モデルの流れを表している。
  • 接触(Accessible)
  • 認識(Findable)
  • 好感(Desirable)
  • 入力(Input)
  • 出力(Output)
  • 認識(Findable)
  • 好感(Desirable)
破線で囲まれた矢印は、心理などのユーザの内面的なものを表している。実践で囲まれた矢印は、動作や感覚などのユーザと外界とのやり取りを表している。

ここで、注意してみると興味深いことが判るはずだ。
入力(Input)=行動(Action)
出力(Output)= 接触(Accessible)
のように捉えてみると、以下のように書き換えることができる。
  • 接触(Accessible)
  • 認識(Findable)
  • 好感(Desirable)
  • 行動(Action)
  • 接触(Accessible)
  • 認識(Findable)
  • 好感(Desirable)
そして、「接触」「認識」「好感」「行動」がワンセットになっていて、C図では、次の「行動」にあたる「入力」が記述されていないことがわかる。出力された結果に対する「反応」を無視すれば、B図の左側だけを繰り返すことになる。

第三層
第二層とは対照的に、この「経験(Experience)層」には、B図の右側にあった文字が並んでいる。
  • 操作性(Usable)
  • 利便性(Useful)
  • 信頼性(Credible)
一般的に、「操作性」を入力するまでのことと思っている人もいるかもしれないが、それは間違っている。インタラクションのように、操作に対する直接的な反応を切り離して考えてはいけない。

「操作性」不満を抱く人は、ここで離脱する。
「利便性」不満を抱く人は、ここで離脱する。
「信頼性」不満を抱く人は、ここで離脱する。

「経験層」が、この3つの段階に分かれていることに是非注目しておいて欲しい。

第四層
「記憶(Memory)層」は、良いか、悪いか、を決定する。それによって、次に進むか、「離脱」するかが決まる。

ここでいう、「記憶」とは、ひとつひとつの言葉の意味の理解が、ひとりひとりで異なることと同じように考えている。つまり、ある個人の記憶に照らして良い記憶であるからと言って、別の個人の記憶に照らしても良い記憶であるとは限らない。

それでも、どのような個人を想定するかは別にして、良い記憶として残る場合には、継続して情報を得ようとする「次への行動」に繋がる。逆に、悪い記憶として残る場合には、「離脱」に繋がる。

現在、僕は、この第四層以下の問題に取り組んでいる。この問題を噛み砕こうとすると、「言語の次元」という話を真剣に考える必要がある。興味のある人は、コメントを残すようにしてもらえれば、できるだけ、その点を説明する機会を用意したいと思う。

また、ソーシャル・メディアについての話は、既に書いてきているので、タグをベースにして呼んでみて欲しい。特に、ソーシャル・キャリアーに関する記述は、この第四層に関わってくる問題をたくさんはらんでいるので、自分なりの言葉で、よく噛み砕いて欲しいと思う。

さて、ここに述べたことを簡略して図にすると、こうなる。

2010年4月18日日曜日

ユーザ・モデル

ユーザ・モデルとは、コミュニケーション・モデルを利用するユーザ自身のことをさす。

コミュニケーション・モデルの中のユーザは、漠然としたユーザではなく、適切な手法に基づいて設計されたユーザ・モデルであるべきだ、と思う。実際、ユーザ・モデルの設定が行われていない場合、実際の運用を行ってみえてくる、いろいろな齟齬がどのような原因から生じるものか判らなくなってしまう。ユーザ・ワーク・モデルの精度を上げることを放置して、システム開発を継続すると、やたらと立派なシステムが出来上がってしまうのだが、実は、ユーザのニーズを満たすことの無い仕様書だけが山積みされる結果を生み、システム・ワーク・モデルとしても完成に近づけない。

ペルソナ
その為、コミュニケーション・デザインの世界では、ユーザ・モデルを「ペルソナ(Persona)」のようなある種の人格設定を行ったりする。


あなたの周りにいる人、ひとりとって見ても、あなたとどれだけの好みが異なるか?考えたことがあるだろうか?もし、その人が、あなたよりも身長が高ければ、その人は、あなたと異なった視界で、この世界を見ているはずだし、あなたより細身だったら、今の室温が寒いと感じているかもしれない。

僕は、これまで、ペルソナを設定する際には、「使い易さ(Usability)」と「親しみ易さ(Affinity)」の2つの切り口から仮設していた。
  • 「使い易さ(Usability)」
  • 「親しみ易さ(Affinity)」
そして、その切り口に対して、以下の7つの評価ポイントを設定してきた。
  • 「価値がある(Valuable)」
  • 「信頼できる(Credible)」
  • 「役に足つ(Useful)」
  • 「使いやすい(Usable)」
  • 「アクセスしやすい(Accessible)」
  • 「見つけやすい(Findable)」
  • 「好ましい(Desiable)」

その結果、


のような絵を描いて考えるようにしている。

この図は、「コミュニケーション・モデル」の時に使用した図と同じことを表していることに注意して欲しい。