はじめに

僕は、「ネット・メディア」という呼び方には共感を覚えない。

コンピュータがネットワークに繋がったのは、もう随分と前の話で、機関車とリニアモーターカーを一緒にして鉄道を語るような議論に参加するつもりは無い。

ネットワーク上に存在するけれども、ネットーク上の特定のサービス、ソーシャル・ネットワーク・サービス」が利用できるようになって見えてきた新しいパラダイム。それが、「ソーシャル・メディア」だ。「ソーシャル・メディア」を選択することは、どのようなファッションに身を包むかと同じで、この時代の生き方を選択することであり、自分なりのメッセージを発信することだと思う。

僕は、「ソーシャル・メディア」には、「マス・メディア」を凌ぐほどの力があると思う。なぜなら、それを利用したいと思う潜在的な需要が、ひとりひとりの中にあると思うからだ。もっとも、「ソーシャル・メディア」の本質が、多くの人にとって、しっかり伝わっていないことも現実だろう。

2010年3月26日現在、「ソーシャル・ネットワーク・サービス」を利用してメッセージを発信することが、「マス・メディア」を通じて報道することと同じ、あるいは、それ以上の「重要な役割」があると言われれば、多くの人はその首を傾げるだろう。

一方で、「マス・メディア」は無くなるか?と言われれば、「マス・メディア」に求められてきた本質は維持されるだろう。その本質とは、広域に、早く、そして、信頼に足りうる正確な情報を伝えてきたこと。これは、ある意味では正しく、ある意味では間違った表現でもある。

そのことについても、随時、洞察を試みたい。

今、僕の興味の中心には、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」がある。

もしかすると、「ソーシャル・ジャーナリズム」という定義は、何処かで誰かがなされているのかもしれない。然し、僕なりに、この言葉の定義を行ってみる。実際、このような定義を行おうとすると、さまざまな概念や現象を少しづつ噛み砕いていかないと分からないことが多い。特に、僕は、「ジャーナリストの存在とその役割」が、社会的に大きく異なってくるのではないか?と考えているので、この切り口から見ていくと、他の方の定義がどのようなものであれ、自分なりにまず、定義しておくことは避けられない。

まあ、やってみよう。

ソーシャル・ジャーナリズムの空間」の本質はなかなか見えにくい。なぜなら、その本質は、この空間に存在するユーザひとりひとりの意識の変化として現れるから。だからこそ、面白い。

まず、書いてみたもの。
次に、「ソーシャル・ジャーナリズム」に関連して書いたもの。
次に、「ヒューマン・センタード・デザイン」に関連して書いたもの。ネット上でのサービス開発を行う人には、是非読んで頂いて、感想を聞かせて欲しいと思う。
世の中にある興味深い人、モノ、コト。

時間を見つけて書いてみたいもの。
  • 知の好適距離
  • 人とヒトの好適環境
  • 暗黙知
  • 見出し語、文脈
  • 情報表現の非制約
  • 情報配信の非地域依存
  • 情報素材の可参照
  • Afinity
  • コンテクスト・デザイン
僕の足跡になるもの
翻訳してみたもの

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