Twitterのようなソーシャル・メディアによって、
然し、ソーシャル・メディアを介して、現実世界では出逢う機会などあり得ない人と出逢うことは、これまでになかった特別なことに違いない。その上で、自分と出逢った相手との共通する価値観に気づけば、これまで遠い世界の果てにあった相手をとても身近に感じるようになり、自分と世界との繋がりが密接にあるように感じる。
一方、こうした出逢いが生まれる同じ空間で、自分の価値観と異なる人間を反射的に切り捨てるようなことをしていると、
若者はなぜ生きづらいのか?
社会学者の鈴木謙介さんへの乾広輝さんのインタビュー記事、「若者はなぜ生きづらいのか?」に、
記事は、
親の立場からすれば、自分が生き抜いてきた経験が「良い記憶」という場合も多分にあるだろう。然し、子供の立場からすれば、親たちが言う“普通”イメージに共感を覚えないのだと思う。
日本システムのゾンビ化
記事には、他の国々の事情とは異なり、長い期間に渡って日本の雇用システムが維持されてきた指標として、以下の「完全失業率の推移」のグラフが添えられている。
鈴木さんは、家庭、企業、地域、国といったある規模の生活圏を一つのシステムとして捉えているようだ。その上で、若者たちが、
先進国における完全失業率の推移を比較すると、日本は、欧米のような浮き沈みこそ数値となって現れていないが、徐々に疲弊してきている状況にあることが判る。
記事は、
あれ?…どこかに通じる記憶。
それは、20年以上も前、就職活動をしていた頃の記憶。それと変わらないではないか。
「悪い記憶」でなければ、「良い記憶」なのか?
否。「離脱」は増えている。
世界を小さくする術
ふと、意地悪な仮説を立ててみる。
Twitterにおいて、それぞれが匿名を名乗るユーザとして親子が出会う場合、どんな状態になるのだろうか?
価値観の相違に気づくことで、ふたりの親子の心の距離は大きく開いてしまうのだろうか?仮に、そうなってしまうと、二人の親子は、二度と交わり合うことがない「大きな世界」にそれぞれが生きていくことになる。
でも、仮に、互いの価値観の相違に気づいたとしても、別の価値観として近しいものを見つけることができたとしたらどうだろう?
そうなれば、ふたりの心の距離は縮まり、世界は小さくなるのではないだろうか。
どのような世界、どのようなシステムにおいても、
世界はどんどん小さくなっている。勿論、実体としての現実世界の大きさはなにも変わらない。
然し、ソーシャル・メディアを介して、現実世界では出逢う機会などあり得ない人と出逢うことは、これまでになかった特別なことに違いない。その上で、自分と出逢った相手との共通する価値観に気づけば、これまで遠い世界の果てにあった相手をとても身近に感じるようになり、自分と世界との繋がりが密接にあるように感じる。
一方、こうした出逢いが生まれる同じ空間で、自分の価値観と異なる人間を反射的に切り捨てるようなことをしていると、
世界はますます大きくなってしまう。つまり、ある価値観で対立したとしても、相手の存在を既に知ってしまった上で、意識的に相手の存在を遠ざけることは、自分と世界との繋がりは疎遠にあるように感じさせる。
若者はなぜ生きづらいのか?
社会学者の鈴木謙介さんへの乾広輝さんのインタビュー記事、「若者はなぜ生きづらいのか?」に、
…高度成長を前提にしたライフスタイル…
…ほんの数十年の間に起こった出来事を、僕らは“普通の生き方”と認識してしまった。具体的には、「いい学校に入れば、いい会社に入れて、老後までいい生活が送れる」というものですね。今の若い人はそうしたモデルをあまり信用していませんが、それ以外の生き方を思い描くことができないので、どうしていいか分からない。…とあった。
人は、自分が経験した「良い記憶」に基づいて行動する。自分が経験した「良い記憶」を持っている親が、自分の子供に、特定の行動をとるように促したとしても、何も不思議はない。そして、子供の立場からすれば、親が用意してくれた現在の生活、あるいは、その事実を否定するモノは何もない。だけど、親の経験に匹敵するほどでなくても、自分自身の経験を元にしなくては、行動に踏み出せないことも容易に想像がつく。
記事は、
1世代だけだったら、お父さんと子どもの違いだけで良かったんですが、2世代またいでしまうと、「おじいちゃんもお父さんもそうだったけれど、自分は違う」という形で、“普通”イメージが強化され、ますますモデルが見えにくくなってしまう…と指摘している。
親の立場からすれば、自分が生き抜いてきた経験が「良い記憶」という場合も多分にあるだろう。然し、子供の立場からすれば、親たちが言う“普通”イメージに共感を覚えないのだと思う。
日本システムのゾンビ化
記事には、他の国々の事情とは異なり、長い期間に渡って日本の雇用システムが維持されてきた指標として、以下の「完全失業率の推移」のグラフが添えられている。
鈴木さんは、家庭、企業、地域、国といったある規模の生活圏を一つのシステムとして捉えているようだ。その上で、若者たちが、
不景気になればなるほど、システムを批判するのではなく、システムに自分を合わせようとしてしまう。と指摘する。
先進国における完全失業率の推移を比較すると、日本は、欧米のような浮き沈みこそ数値となって現れていないが、徐々に疲弊してきている状況にあることが判る。
記事は、
…大学2~3年ぐらいまでは調子いいことを言っていた奴が、3年の夏ぐらいから突如真面目な就活生に変わってしまうという(笑)。そういう学生の状況が、システムがいかにゾンビ化しているかを、物語っていると思います。と締めくくる。
あれ?…どこかに通じる記憶。
それは、20年以上も前、就職活動をしていた頃の記憶。それと変わらないではないか。
なるほど。要するに、衰退するシステムに合わせてきた国民の姿だけは、今も昔も変わらない、ということか。
「悪い記憶」でなければ、「良い記憶」なのか?
はて。どこか、引っかかる。
こうした社会を生き抜いてきた親たちにとって、そうした経験は「良い記憶」なのだろうか?
就職できた。生活できる。
確かに、家庭や企業をはじめとして、どのようなシステムにも関わることができない最悪な状態を逃れた結果は、「完全失業率のグラフ」となって現れている。
「悪い記憶」で無いことは「良い記憶」なのか?「コミュニケーション・モデル」では、「離脱」が起きない間は、コミュニケーションが継続していると考えた。その立場からは、「悪い記憶」がない限り、「離脱」は表面的に現れることはない。
否。「離脱」は増えている。
世界を小さくする術
ふと、意地悪な仮説を立ててみる。
Twitterにおいて、それぞれが匿名を名乗るユーザとして親子が出会う場合、どんな状態になるのだろうか?
価値観の相違に気づくことで、ふたりの親子の心の距離は大きく開いてしまうのだろうか?仮に、そうなってしまうと、二人の親子は、二度と交わり合うことがない「大きな世界」にそれぞれが生きていくことになる。
でも、仮に、互いの価値観の相違に気づいたとしても、別の価値観として近しいものを見つけることができたとしたらどうだろう?
そうなれば、ふたりの心の距離は縮まり、世界は小さくなるのではないだろうか。
どのような世界、どのようなシステムにおいても、
ひとつだけの価値観に限定しまわないことが、大切だと思う。
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