5+6=?
?+?=11前者の答えは一つだけ。後者の答えには、多様な組み合わせが存在する。
このような教育方針の元では、学校の先生も、機械的に「答え合わせ」するのではなく、生徒の考え方のひとつひとつを汲み取るようにして採点しないといけない。その結果、生徒は自由な発想から選択し、行動することの楽しさを学ぶのだろう。察するに、フィンランドの教育では、生徒ひとりひとりのリテラシーの向上を目的として、こういった教育に取り組んでいる、と思う。
既に知っている情報
僕たちは、目の前にある情報を「知っている情報」と鵜呑みにしていないだろうか?
5+6=11と何度も繰り返して教えられてきた人は、
「11」になる答えは?と聞かれて、
「5」と「6」を足したもの。と答えたりはしないだろうか?
勿論、
それは間違ってはいない。然し、「11」という答えになる組み合わせは、無限にある。
1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1=11
1÷1+10=11
111−100=11
1×1+10=11単純な四則演算の範囲でも、無限に組み合わせが考えられる。
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:
そして、これらの答えは、
どれも正しい。もし、これらの答えも、場合によっては認めることができなければ、
フィンランドの先生は失格なんだろう。
多様な価値観
現実世界で、ネット空間で、僕たちは、さまざまな情報に接している。
僕たちは、辞書には、多くの言葉に複数の解釈があるのを知っている。また、誰かと話をする時、本や資料を読む時、立場や文脈に応じて複雑な意味があるのも知っている。
普段の生活の中で、ひとつひとつの言葉の微妙な意味を使い分けている。
ところが最近、僕は、自分が捉えていた言葉の意味がどこかズレてしまっているような感覚に陥る時がある。それも、ずっとズレていてくれるのであれば修正もできるのだが、それが違う。
もっともズレて感じるのが、テレビだ。
ずっと気になっていたのだが、テレビから送られてくる情報に対する僕の反応が、どこかぎこちない。それが、年末ぐらいから随分とヒドい。
随分と以前だったら、テレビから送られてくる情報が、
「11」だったら、
「5」と「6」を足したもの。と、クイズ番組に答えるように反射的に答えていたものが、
あれ、今日は、「4」と「7」を足したものだったのか…。ふーん。
あれ。今日は、「2」と「9」を足したもの?
あれれ。今日は、「3」と「2」と「6」なの?近頃では、
「???」となるような日まである。丸覚えでは通用しなくなってきている。
テレビの中にも、多様な価値観が反映されてきているのだろうか?
メディアの立ち位置(テレビ局としての考え方)
普段の生活で、馴染みの人と話すとき、
あの人は、必ずふざけて間違えて答えるさ。
あの人が、間違うはずが無い。
あの人は、たまに早合点する。といった具合に話し手の人柄を踏まえて判断することがある。
テレビから送られてくる情報に対して、そんな人柄のようなものを踏まえて判断するようなことはなかっただろうか?
ああ、あった。あった。アンチ巨人になった人の中には、
「野球の実況中継が余りにも巨人贔屓だから…」という理由の人は意外と多い。そういう人は、「あのテレビ局では野球中継を観たくない」と言って、テレビを遠ざけはしたが、他の番組ではテレビの前に戻ってきた。
僕自身、ニュースだけは、それなりに信じて観ていた。テレビ局毎に「贔屓」のようなものをそれなりに感じてはいたが、その分を適当に差し引いて観ていれば、それはそれでコトが足りていたからだ。
最近、痛感するのは、
「なんだ。そこを贔屓していたのか?」と思うようなことが増えた。
それでも、好きずきだからと放っておいたら、どういうことだろう。
「あれ?そっちは、反対していた意見じゃなかったのか?」という具合になってきた。
自分なりの考え方
算数の問題を解くのではなくて、大人の問題を解くのに、フィンランドの教育から学ぶとすれば、
「それはどういうことなんだ?」
「面白い答えは、なんだ?」という自分なりの考え方を養うってことではないだろうか?
こういった考え方をテレビに頼ると、
また、丸暗記になってしまう。
1 件のコメント:
土曜にプレゼンした川崎一彦です。コメントありがとうございます。
お一人でもこのように考えて頂ける方がおられるとプレゼンをした価値が実感できます。
正直教育改革には時間がかかり、2012年までのシフトには限界があるでしょう。それでも一人一人の意識が変わらなければ、この国の将来はない、と考えて実践研究に取組んでいます。
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