「世界を編集したい」という言葉を聞いたとき、大きな衝撃が走った。
この発言の主は、フリー・ジャーナリストの岩上安身さん。
僕たちの生きているこの世界には、次から次へ、新しい事象が現れ、同時多発的にさまざまな事件が発生している。
そのひとつひとつを説明する為に言葉がある。
難解な言葉を噛み砕いて平易な言葉に置き換えることも、そうした難解な言葉で綴られた長い文章を読み解こうとすることも、それを知りたいと思う人の好奇心に依存する。
好奇心がないと、自分の置かれた状況(文脈)やTLの中に突然飛び込んでくる情報を見ても、その情報がどれだけ適当な情報であっても、なにも想起できない。
インターネット上には、ありとあらゆる情報がある。
好奇心さえあれば、ひとつひとつの情報を繋いでいくことができる。
僕は、それが「編集」に繋がる概念だと思う。
岩上さんは、言う。
「…人間は、みんな不完全情報しか認識できないんです、」なんという認識。
この方の好奇心。否、ひとつひとつの情報を繋いでいこうとする「意志」。すべてが、そうした思いからスタートしていることに、ただただ敬意を表したい。
3 件のコメント:
「ヒューマン・センタード・デザイン(3)」の中で触れている「ユーザの意志」は、このブログの最後にある「意志」と同質のものとして使っています。
是非参照ください。
私、昭和生まれなんですけど、私が成人する頃までは、間違いなく日本社会には社会インフラとしての「共同体」というものが色んな形で残っていました。
「共同体」があると、そこに属する人達がコミュニケーションをとることによって、気の合う人達で、新しいインターナル組織(ゆるゆる)を作り、そして、それがまた外部の人達を巻き込んだ新しい「共同体」を作っていく。
「共同体」の中では、縦横ななめの知の共有、助け合いが自然発生的に生まれ、社会的な規範が維持できていたんだと思います。
日本社会全体が有機的で、それが、ダイナミズムにつながっていたんですね。
今って、「共同体」もなければ、有機的なコミュニケーションも少ない。だから、個人は社会的な権威に対して、強くなれなくて流されることが多いんだと思います。
やっぱり、「それ違いまっせ」とか、「これこうした方がいいと思いますよ」っていうある意味、おせっかいって重要ですよね。「おせっかい」って人に対する愛情の裏返しなのです。
私は、岩上さんのやられていることはメディアを活用した「おせっかい」なんだと思っています。
昭和のおっちゃんなんです。私も岩上さんの行動や発言に共感していますので、昭和のちっちゃなおっちゃんとして、いろんな形で、「おせっかい」を続けようと思ってます。
「おせっかい」を愛情と感じられれば、まともな社会になった証拠だと思います。
長文、失礼いたしました。
完全な人間なんていない、また、おそらく完全を目指す必要もない。
でも、生きていく上で、色々な意味で少しずつでも成長することは大事。これが生きることの意味かも。
お互いに相手のことを思いやり、お互いに成長しようと思えば、コミュニケ―ションを取り合い、
今まで1年たってもわからなかったことが1日でわかったりします。
時間の短縮にはインターネットは非常に有効だと思いますが、あくまでも手段。
同じ場を共有している人がどのような意識をもつか、それが最も重要な気がします。
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