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2010年4月28日水曜日

Facebookを使った呼びかけ -米国高校生たちの抗議集会-

米国のニュージャージー州の高校生たちが抗議集会を行った記事がネットで見ることができる。
http://mashable.com/2010/04/27/facebook-walkout/

高校生たちは、FaceBook上で、18才の大学生が「来年度の教育予算削減に対する抗議をしよう」と呼びかけたことに応じて集まった。

抗議に参加した参加者たちは、MySpaceやTwitterなどのソーシャル・メディアを駆使することで集まっていった。

Newark students walk out of school, take City Hall


僕は、FaceBook利用者には、「同じ価値観、あるいは、同じ文脈を共有する現実世界の人間関係」がそのまま持ち込まれていること(あるいは、その可能性)を「対等のネットワーク」中でも指摘していたので、このような抗議活動の起点にFaceBookが関与したこと自体、特に驚きはしない。

自分たちの関係が明らかな状態では、それぞれの利害関係が明示的/暗示的にわかる状態にある。その為、打算的な呼びかけや興味本位の発言に呼応して行動することは少なくても、正論と思われるような呼びかけを無視することはなかなか難しいだろう。
もっとも、日本人の感覚に、このような感覚に異論を唱える人もいるかもしれない。然し、少なくとも、開かれた言論の世界では、「沈黙していること」は「反対しない」という意志表示としてみなされる。それが、表現の自由の意味だと言えば、理解してもらえるだろうか?


参加者の感想
以下は、この記事にある抗議活動への参加者の呟き。


これって、ぶっ飛んでる感じ(insanity)。ニュージャージー州の若い世代の一部になれてこれまでこんなに良かったと思うことはなかったわ。一緒に参加した皆を誇りに思う。みんなが美しい。
これだけの高揚感に満ちた経験は、彼女ひとりだけの感想なのだろうか?


共有される価値観
FaceBookから発生したこの手の抗議活動は、ある人たちにとっては、
とても厄介な問題になり得る
と思う。

人は、行動を起こし、その結果にメリットを感じる場合、それは強い「良い記憶」となる。これは、「学習」プロセスの大切なメカニズムになっている。

強力な「良い記憶」は、他の人と共有したいと思う行動を呼び起こす。これが、「パーセプション・モデル」の原理だ。その切り口から見ると、彼女の呟きからは、明らかに「学習」の形跡を読み取れるように思う。

これまで、企業は、自社製品やサービスの美辞麗句を並べ立てるようなコマーシャルにたくさんの予算を割り振り、それらをマス・メディアによって大量に発信してきた。しかし、ソーシャル・メディアは、人と人の関係を凄まじい早さで繋ぐことで、「信頼と評判」で繋がる新しい社会の秩序を作ろうとしている。

僕自身の認識が間違っていなければ、このソーシャル・メディアの時代になる時、その中心にいるのは、この記事にあるような若い世代のはずだ。
この記事に対する評価を自分たちの知識や価値観だけに当てはめて下すことは、本当に正しいのだろうか?
僕は、この記事のような出来事が、今日、僕たちの周りで起きても驚かないだろう。なぜなら、世界にいる人と人は、どんどんと繋がっている。誰かの成功体験、つまり、人に自慢したくなるような「良い記憶」を自分も共有したいと望んでいるのだから。

勿論、最初からそういう価値観を共有することを望んでいない人たちもいる。
だから、厄介なのだ。

2010年4月26日月曜日

フィンランド教育に学ぶメディア・リテラシー

日本とフィンランドの教育」では、簡単な算数の問題も、ちょっと違うようだ。
5+6=?
?+?=11
前者の答えは一つだけ。後者の答えには、多様な組み合わせが存在する。

このような教育方針の元では、学校の先生も、機械的に「答え合わせ」するのではなく、生徒の考え方のひとつひとつを汲み取るようにして採点しないといけない。その結果、生徒は自由な発想から選択し、行動することの楽しさを学ぶのだろう。察するに、フィンランドの教育では、生徒ひとりひとりのリテラシーの向上を目的として、こういった教育に取り組んでいる、と思う。


既に知っている情報
僕たちは、目の前にある情報を「知っている情報」と鵜呑みにしていないだろうか?
5+6=11
と何度も繰り返して教えられてきた人は、
「11」になる答えは?
と聞かれて、
「5」と「6」を足したもの。
と答えたりはしないだろうか?
勿論、
それは間違ってはいない。
然し、「11」という答えになる組み合わせは、無限にある。
1+1+1+1+1+1+1+1+1+1+1=11
1÷1+10=11
111−100=11
1×1+10=11
   :
   :
単純な四則演算の範囲でも、無限に組み合わせが考えられる。

そして、これらの答えは、
どれも正しい。
もし、これらの答えも、場合によっては認めることができなければ、
フィンランドの先生は失格なんだろう。


多様な価値観
現実世界で、ネット空間で、僕たちは、さまざまな情報に接している。

僕たちは、辞書には、多くの言葉に複数の解釈があるのを知っている。また、誰かと話をする時、本や資料を読む時、立場や文脈に応じて複雑な意味があるのも知っている。

普段の生活の中で、ひとつひとつの言葉の微妙な意味を使い分けている。

ところが最近、僕は、自分が捉えていた言葉の意味がどこかズレてしまっているような感覚に陥る時がある。それも、ずっとズレていてくれるのであれば修正もできるのだが、それが違う。

もっともズレて感じるのが、テレビだ。

ずっと気になっていたのだが、テレビから送られてくる情報に対する僕の反応が、どこかぎこちない。それが、年末ぐらいから随分とヒドい。

随分と以前だったら、テレビから送られてくる情報が、
「11」
だったら、
「5」と「6」を足したもの。
と、クイズ番組に答えるように反射的に答えていたものが、
あれ、今日は、「4」と「7」を足したものだったのか…。ふーん。
あれ。今日は、「2」と「9」を足したもの?
あれれ。今日は、「3」と「2」と「6」なの?
近頃では、
「???」
となるような日まである。丸覚えでは通用しなくなってきている。

テレビの中にも、多様な価値観が反映されてきているのだろうか?


メディアの立ち位置(テレビ局としての考え方)
普段の生活で、馴染みの人と話すとき、
あの人は、必ずふざけて間違えて答えるさ。
あの人が、間違うはずが無い。
あの人は、たまに早合点する。
といった具合に話し手の人柄を踏まえて判断することがある。

テレビから送られてくる情報に対して、そんな人柄のようなものを踏まえて判断するようなことはなかっただろうか?
ああ、あった。あった。
アンチ巨人になった人の中には、
「野球の実況中継が余りにも巨人贔屓だから…」
という理由の人は意外と多い。そういう人は、「あのテレビ局では野球中継を観たくない」と言って、テレビを遠ざけはしたが、他の番組ではテレビの前に戻ってきた。

僕自身、ニュースだけは、それなりに信じて観ていた。テレビ局毎に「贔屓」のようなものをそれなりに感じてはいたが、その分を適当に差し引いて観ていれば、それはそれでコトが足りていたからだ。

最近、痛感するのは、
「なんだ。そこを贔屓していたのか?」
と思うようなことが増えた。

それでも、好きずきだからと放っておいたら、どういうことだろう。
「あれ?そっちは、反対していた意見じゃなかったのか?」
という具合になってきた。


自分なりの考え方
算数の問題を解くのではなくて、大人の問題を解くのに、フィンランドの教育から学ぶとすれば、
「それはどういうことなんだ?」
「面白い答えは、なんだ?」
という自分なりの考え方を養うってことではないだろうか?

こういった考え方をテレビに頼ると、
また、丸暗記になってしまう。

2010年4月25日日曜日

「教える」から、「学ぶ」へ

川崎一彦さんのWorldShift Forum / Earth Day Tokyo 2010での講演内容をUstreamで見ることができる。

川崎さんは、15年間のフィンランドに居住されており、フィンランドと日本の教育市場との比較を交えながら、実に興味深い指摘をされている。

フィンランドの教育は、「教える教育」から「学ぶ教育」への意識改革をすることで、PISA(国際学習到達度調査。Programme for International Student Assessment)で高い実績を残すようになった。

「教える教育」から「学ぶ教育」への意識改革とは、どういうことだろうか?

プレゼンテーションの冒頭には、以下のような言葉が並ぶ。
  • 「内容」から「方法」へ
  • 「覚える」から「考える」へ
  • 「画一」から「多様」へ
  • 「KY(空気が読めない)」から「自分の意見」へ
  • 「ダメ人間」から「夢と希望」へ
  • 「想い」から「ことば」へ
  • 「ことば」から「行動」へ
このような切り口から教育現場に置ける意識改革が実践されていったようだ。

ボコッと、沸き上がるものを感じた。

「教える教育」は、先生が一方的に話を続ける退屈な授業のようにも思えるが、「学ぶ教育」は、絵を描いたり、楽器を演奏するように、生徒自身が行動することを通じて周囲の人と対話的することなしには成り立たない。

また、以下のような言い方もできる。

「教える教育」は、画一的な価値観を伝播するマス・メディアに近い。一方、「学ぶ教育」は、好奇心を持って、自ら情報に接しようとするソーシャル・メディアに近いように思う。

「教える教育」から「学ぶ教育」への意識改革とは、「好奇心を育てる教育」を目指していると言えないだろうか?

僕は、情報に価値があるかないかを決める主体は、情報の発信者ではなく、情報の受信者が決めるものだと思っている。

そのことを前提にすれば、より多くの情報に興味が持てるような人財を作ることが、「教育」に求められている。そして、よりたくさんの好奇心を持った人が、より多くの情報に価値を見いだすことができ、新しい社会を築くうえでの礎になれる、と思う。

「教える教育」から「学ぶ教育」への意識改革が進んでいくことを、この日本社会の中でも、是非成功させて欲しいと思う。

続く

2010年4月23日金曜日

対等のネットワーク(peer networks)- FaceBookとTwitter

FaceBookは、Twitterと同じように、ソーシャル・ネットワーク・サービスであり、米国を中心として海外では、とても高い人気を博しているサイトだ。

complete社が提供している2010年3月現在のサイトアクセス解析では、FaceBook社とTwitter社の公式サイトへのユニークビジター数を比較からは、
  • FaceBook 132,040,907
  • Twitter 21,287,217
となっており、圧倒的にFacebook社が優位に見える。

もっとも、Twitter社は、Twitter APIを公開している。その結果、サードパーティーによるさまざまなブラウザが開発されており、ヘビーユーザになればなるほど、さまざまな機能を持ったサードパーティー製ブラウザを使う傾向が高い。実際、Twitter社の発表では、ユーザのトラフィック全体の75%がサードパーティー製ブラウザから行われているそうだ。その為、公式サイトへのユニークビジター数の比較は、余り当てにならない。(それでも、2100万人だけど)

もっとも、FaceBook社の公式サイトへ1億3000万を超えるユニークビジター数があるという事実は、2008年の日本の人口1億2700万人世界10位)であることを念頭に置けば、極めて大きなネットワークが存在していると認識すべきだろう。


FaceBook 社のサービス

FaceBook 社のサービスは、元々、大学内に居住する寮生たちの名簿のようなコンテンツがベースになっている。つまり、現実世界での学生同士の繋がりが、ネット空間に直接持ち込まれた結果、「顔見知り同士のネットワーク」が出来上がった。

FaceBook ユーザは現実世界に存在する人物その人なので、興味本位のなりすましや真偽の不確かな情報の流布を行えば、直接、そのユーザの「信頼や評判」が崩れることになる。その為、そこでやり取りされる情報は、仮に思い込みのようなものであっても、実在する人物から発信された「(信じてみるだけの価値がある)質の高いコンテンツ」になった。また、そのような「(現実世界に存在する人物その人であるという)存在証明」が行われた学生同士の繋がりは、「(ある程度の)信頼に値するコミュニティー」、つまり、ソーシャル・ネットワークになっていった。

FaceBook 社は、2006年9月の一般公開後も、
  • 「質の高いコンテンツ」
  • 「信頼に値するコミュニティー」
の維持に努めて来ている。

FaceBook サービスを利用するには、以下のようにする。

まず、新規登録を行う。新規ユーザは、既存ユーザに知り合いがいるかどうかを確認される。既存ユーザが見つかった場合は、既存ユーザは、新規ユーザに対する「認証」を求められる。この「認証」を行った人間関係は、それぞれのユーザを紹介するページで明示的に表示される。

実は、この「認証」こそ、「信頼に値するコミュニティー」の維持を目的とした重要なプロセスになっている。つまり、既存ユーザは、自らの「信頼や評判」を損なわないように、新規ユーザを確認し、新規ユーザの「存在証明」の役割を担うことを、意識的に、無意識的に求められるからだ。もし、あるユーザが不正な行為をしたとするとどうなるだろう。そのユーザが、あなたを紹介するページで明示的に示されることを想像してみて欲しい。

一方、サービス利用者は、あるユーザと別のユーザとの明示的な関係をみることで、ソーシャル・ネットワークを広げることができる。

携帯電話による存在証明」の中で紹介した「ソーシャル・メディアと携帯電話の関係」のグラフは、FaceBook世代the FaceBook Generation)のような言葉の意味を正に裏付けている。
FaceBook世代 授業中にも携帯電話でのメールを欠かせない世代を指す。
FaceBook社のサービスは、携帯電話を使うことで活発化している。このことは、間違いないだろう。つまり、携帯電話は、FaceBook ユーザたちの繋がる機会創出を行い、より多くの情報とその情報の広がる範囲を拡大させているようだ。

「携帯電話を使ったメール交換が社会問題化した日本」

「携帯電話を使ったメール交換が社会問題化した日本」では、FaceBook ユーザたちの特性を想起しやすいのではないだだろうか?

そこで、FaceBook ユーザの繋がりを乱暴に仮説してみる。

まず、「同じ価値観、あるいは、同じ文脈」を共有する人たちが作る人間関係がある。その人間関係を集団として捉えると、それぞれの集団は、ある価値観を共有しているだろう。例えば、同じ地域の出身であるとか、同じ学問を学んだとか、同じ倶楽部をやっているとか。ただし、この価値観だけでは、ひとつひとつの集団は大きすぎることは間違いない。そこで、価値観、好み、相性のような人間性が大きく関わってくる。そうすると、途端に小さな集団になるはずだ。

ひとつひとつの集団の繋がりは、本来、比較的、安定しているはずだ。集団に関わる人たちが、現実世界からネット世界に移動してくる時期を過ぎると、新規の人間関係が追加される可能性はさほど多くないだろう。しかし、ある集団と別の集団を繋ぐ関係が一つ増えるだけで、人間関係の繋がりは大きく広がることになる。

一方、FaceBookサービスは、ある集団と対立するような別の集団が使うこともあるだろう。
しかし、見方を変えれば、対立軸にある集団は、その対立関係を含めたより大きな集団として捉えることができる。その結果、情報交換をどれだけ頻繁に行うかを別にすれば、FaceBook ユーザの繋がりに、一定の価値観による分類が可能なように思われる。

FaceBook社のGraph APIは、こうしたユーザの繋がりを裏付ける解析に役立つだろう、と思う。


対等のネットワーク

では、ソーシャル・ネットワーク・サービスとして見たとき、
FaceBookは、Twitterよりも優れているのだろうか?
斉藤透さんのブログ「TwitterとFacebook,どちらが世界最大のソーシャル・ネットワークになるのか?」では、後発のTwitter 社の成長が大きく、現在の成長率が半年続くと、月間訪問者数で、Twitter 社が、FaceBook社を追い抜くそうである。

斉藤透さんは、世界最大のソーシャル・ネットワークになる上で、世界中のインターネット利用者(中国を除く)のうち、15億人の上限を前提に話をされている。

勿論、利用者数が多い方が勝ちという判断が、「優れている」を決めることにはならないと思う。

僕は、Craig Newmarkさんの「信頼と評判」の中に出てくる「対等のネットワークpeer networks)」を実現するソーシャル・ネットワーク・サービスにどちらが近いか、という点で、この優劣を判断したいと思っている。
…この時代の終わりまでに、力と影響は、資本とわずかな力を持つ人々から、最も高い評判と信頼のネットワークを持つ人々に大きく変化するでしょう。つまり、対等のネットワーク(peer networks)では、草の根から現れる人々に当たり前のように相談するようになります。
この切り口から両者のサービスを比較してみる。

まず、FaceBookのサービスの本質は、
同じ価値観、あるいは、同じ文脈」に「依存」の人間関係
にある、と思う。

その為、これまでの価値観や文脈を違えることになると、煩わしい人間関係が邪魔になってくる。勿論、そうした対立する価値観を背負って発言することを非難するつもりではない。然し、社会には、さまざまな力関係があり、その力関係の中で、同じ言葉であっても、同じように人の心に届かないことがあるのではないか、と思う。

一方、Twitterのサービスの本質は、
同じ価値観、あるいは、同じ文脈」に「非依存」の人間関係
にある、と思う。

その為、様々な価値観の言葉が飛び交い、同じ言葉でも、意味や解し方を巡って議論が絶えない。勿論、Twitterがそもそも議論をするのに適したツールであるかどうか、は怪しい。然し、Twitterの口コミ的な広がりだけに着目することには、否定的にならざるを得ない。Twitterは、「さまざまな価値観、あるいは、さまざまな文脈」に置かれた人の考え方を教えてくれる。

現在、Twitter 社のサービスには、とても大きな課題がある。

それは、
存在証明」と「匿名
だ。

存在証明」=「実名」と言うつもりは、さらさら無い。

実名」は、「対等なネットワーク」での「対等な会話」を阻害することがある。「実名」であることは、どのような立場からの発言に対しても威圧的な要因になりうる。むしろ、「匿名」のまま発言できる仕組みが残されるべきだ。

総務省が、国民IDの議論に本格的に取り組み始めていることから、「存在証明」を行うことは、比較的近い将来に、実現するかもしれない。

FaceBook社は、ユーザの「存在証明」によって、
  • 質の高いコンテンツ
  • 信頼に値するコミュニティー
を担保してきている。だから、「存在証明」が可能になる時には、必要に応じて、「実名」と「匿名」を選択できるようになるべきだ、と思う。

そうした条件が満たされた場合、ソーシャル・ネットワーク・サービスとして、どちらが優れているか、歴然とした答えが出るだろう、と思う。
見知らぬ人の言葉が、よく知る人の言葉より、必ず優れている保証など無い。
むしろ、問題に対して同じ距離で向き合えることで、得られた情報の価値を冷静に評価できるようになるはずだ。


米国の国会図書館では、「Twitter上で発信されたすべての呟き(Twitter社の創業時に遡ってから現在に至るまでのすべて)を保存すること」を決めたそうだ。

僕は、ソーシャル・ネットワークは、「対等のネットワーク」の中に作られていく、と思う。

2010年4月22日木曜日

信頼と評判:力と影響を再配信すること - Craig Newmark

連日のように、マスメディアでは世論調査が報道されている。

携帯電話とインターネットを利用した電話サービスが普及していること、共働き世帯が急激に増えてきていること、等を総合的に考えると、平日、一般の電話契約者だけを対象にした世論調査を行ったとしても、どれだけの信頼を置くことができるのだろう。健康な人であれば、仕事が休みと言っても、まず自宅にこもっていることは無いだろう。だから、社会的な状況を考えれば、こうした調査方法に何処までの信頼を置くことができるか疑問に思う。

そこで、Craig Newmarkさんが書かれた、「Trust and reputation systems: redistributing power and influence」というブログを訳してみた。

このブログでは、ネットワーク社会における信頼と評判がテーマになっている。しかし、現実世界でさえ、調査を行っている相手が誰であるか、「存在証明」が正しく行われているかさえ怪しい。Craig Newmarkさんが指摘するように、どのような調査が信頼に値するかどうかは、結局のところ、人間の本質を反映するものだとは思う。だからこそ、それを踏まえた上での提言が行われていることは興味深い。

それでは、はじまり。

Trust and reputation systems: redistributing power and influence
by Craig Newmark, APRIL 6, 2010
People use social networking tools to figure out who they can trust and rely on for decision making. By the end of this decade, power and influence will shift largely to those people with the best reputations and trust networks, from people with money and nominal power. That is, peer networks will confer legitimacy on people emerging from the grassroots.
人は、意思決定するにあたり、誰が信頼に足り、当てにできる人物かを推し量るのに、Social Networking Toolを使っています。この時代の終わりまでに、力と影響は、資本とわずかな力を持つ人々から、最も高い評判と信頼のネットワークを持つ人々に大きく変化するでしょう。つまり、対等のネットワーク(peer networks)では、草の根から現れる人々に当たり前のように相談するようになります。
This shift is already happening, gradually creating a new power and influence equilibrium with new checks and balances. It will seem dramatic when its tipping point occurs, even though we're living through it now.
この変化は既に起こっていて、徐々に、新しい抑制均衡(checks and balances)に基づいた新しい力と影響の均衡(equilibrium)を作り始めています。現在、私たちはその変化の中を生き抜いていながらも、その変化のテッピングティッピングポイント(its tipping point)が起こる時には、劇的なモノのように思うでしょう。
Everyone gets a chance to participate in large or small ways, giving a voice to what we once called "the silent majority."
すべての人が、かつて、“モノ言わぬ大衆”と呼ばれたことについて、多かれ少なかれ、モノを言うようになるでしょう。
(Okay, I started with the bottom line. The following is a relatively brief summary of how I got there, deserving much longer treatment from really smart people.)
(よろしい。私は、その大前提で始めました。以下は、本当に賢い人々からより大きなもてなしを受けながら、そこにどうやって辿り着いたか、に関して簡単な要約です。)
When we need help with decision making, we get recommendations from people we trust, that trust built on some combination of personal experience and reputation. That's the way humans work, nothing new about that. We talk about reputation being one's greatest asset.
私たちは、何かを決めるのに助けが欲しいとき、信頼する人の個人的な経験と評価のうえにある信頼にもとづいたオススメをもらいます。それは、人類がやって来たことで、特に新しいことではありません。私たちは、評判が、その人の飛び抜けた強みになることについて話し合います。
Reputation is contextual, that is, you might trust someone when it comes to dry cleaners but not politic. However, I'm going to simplify this thing by avoiding the issue, right now. (Yes, might be short-sighted on my part.) I'll also defer a prerequisite, the need for persistent and verifiable identity, the need to prove you are who you say you are.
評判が、文脈的であり、政治的なものでは無く、合理的に割り切ってきれいなものになるのであれば、あなたは誰かを信頼するのかもしれません。しかしながら、その問題を避けることで、まず、このことを簡略化してみたいと思います。(ええ。私の役割としては、目先のことしか考えていないかもしれません。)持続的で真実であると証明できる身分証明の必要性、あなたは、あなたである言っている人であることを証明する必要性という、前提条件(a prerequisite)に従うでしょう(注1)。
In real life, personal networks are pretty small, maybe in the hundreds. Mass media plays a role in shaping reputation for a small number of people, including celebrities and politicians. A very small number of people have influence in this environment.
現実の生活では、個人的なネットワークはとても小さくて、せいぜい、数百に収まるでしょう。マスメディアは、有名人や政治家を含むわずかな数の人たちから評価をつくる役割を担っています。この世界に影響力を持っているごくわずかな人達です。
Internet culture and technology changes this dramatically:
インターネット文化と技術は、この状況を劇的に変えています。
  • people tend to work with each other
  • people are normally trustworthy
  • despite their large media footprint, there aren't many bad guys out there
  • message spreads quickly
  • message is persistent, it's there forever
  • connectivity is increasingly pervasive
  • people are finding that reputation and recommendation systems can be used to drive a lot of profit. 
  • 人々は互いに作用するようになっています。
  • 人々は普通に信頼に値します。
  • そうした人々のメディアとしての大きな功績(footprint)があるも関わらず、悪い人はあまりいません。
  • 価値のある情報(メッセージ)は素早く広がります。
  • 価値のある情報(メッセージ)は持続的であり、そこに永続的にあります。
  • 結合性は、徐々に行き渡っています。
  • 人々は、たくさんの利益をもたらすようになるはずの、評価と推薦のシステムを見つけようとしています。
Okay, so we want to be able to see who we might be able to trust, maybe by seeing some explicit measurement, or maybe something implicit, like seeing their history, and who trusts them.
ともかく、明快な測定値、あるいは、彼らの履歴と誰がその人達を信用しているかを見るような暗示的な何かを見ることで、私たちは信頼できるかもしれない人に出会えるようになりたいのです。
We already see various forms of reputation and recommendation systems evolve, often with mixtures of pre-selected experts or professionals. Amazon and Consumer Reports Online do a good job of this. (Disclaimer: I'm on the board of Consumers, since their record for integrity is close to perfect.)
私たちは、事前に選ばれたエキスパートやプロが入り交じったりしている、さまざまな形態に進化する評価と推薦のシステムを既に見ています。AmazonとConsumer Reports Onlineは、この良い仕事をしています。(免責条項:私は消費者委員会に参加し、彼らの記録は、ほぼ完璧に近い完全な状態でのので、)
Wikipedia does a very good job of this, mostly by having lots of people keep an eye on articles, particularly the more controversial ones. There are ongoing issues, being addressed in good conscience as people develop new methods to address information quality and reliability.
Wikipediaでは、特により議論を交わされる記事に、たいていの場合、多くの人が注視し続けることで、とても良い仕事がなされています。情報の品質と信頼性に取り組む新しい手段を開発するように人々に本当に呼びかけている、いくつかの継続中の問題があります。
We also see reputation and influence created by persistent works, reflected in social networking sites including Facebook, LinkedIn, and Google Social. Such systems show history and context, which play into trust, and display connections to other people. Those are not trust relationships normally, they're "weak ties" which also play into trustworthiness.
私たちは、Facebook、LinkedIn、Google Socialを含む、ソーシャル・ネットワーキングのサイトの中で反映された、持続的な作業にとって作られる評価と影響を見ています。それらのシステムは歴史とさまざま事象の前後関係(context)を表しています。そして、それらのシステムは信頼されるようになり、他の人達への繋がりを表しています。それらのすべてが、一概に信頼関係ではありませんが、 それらもまた、信頼する価値のあるように機能する、“ゆるい繋がり(weak ties)”なのです。
Cory Doctorow (or here) postulates kind of a trustworthiness currency called "whuffie". You trust someone, maybe want to reward them for something, you give them points. Turns out that there's an experimental repository of whuffie, thewhuffiebank.org. While this sounds facetious, it's a very simple solution to the complex problem of tracking trust.
Cory Doctorow (あるいはここ)は、“whuffie(ウッフィー)”と呼ばれる信頼価値の通貨のようなものの存在を仮定しています。あなたが誰かを信頼しているとして、何かでその人に報いたいとすると、その人にポイントを与えます。thewhuffiebank.orgには、ウッフィーの実験的な貯蔵庫があります。滑稽に聞こえるかもしれませんが、信頼を跡をたどろうとする複雑な問題に対するとても簡素化された答えです。
The most prominent experiment in directly measuring trust is Unvarnished, very recently launched in beta form. You rate what trust you have in specific individuals, and they might rate you. Unvarnished is pretty controversial, and is already attracting a lot of legal speculation. They're trying to address all the problems related to the trustworthiness of the information they receive, and if so, might become very successful.
Unvarnished(飾り気の無い、ごまかしの無い、の意味)は、信頼を直接的に測定しようとする最も卓越した実験です。ベータ版としてほんの最近立ち上げられました。あなたは、特定の個人時に対して何を信頼しているかを評価し、彼らもあなたを評価します。Unvarnishedでは、とても活発な議論がなされていて、既に、合法的な推察(legal speculation)から多くの共感を得ています。Unvarnishedの利用者は、すべての問題を、彼らが受け取った情報の信頼価値に関連づけて取り組もうとしていて、うまく関連づけることができれば、とても成功するかもしれません。
The last raises an issue all such systems have; they might be very easy to game. Any such system is vulnerable to disinformation attacks, wherein smart enough people can figure out how to fake good or bad ratings. There are a number of very successful groups who are really good at such disinformation in conventional media. Often they're called "front groups", "influence peddlers" or "astroturfers." One good watchdog over such groups is the Center for Media and Democracy.
最後に、そのようなシステムは簡単にゲームのようになるかもしれないという問題を挙げておきます。どんなシステムでも誤った情報による攻撃を受けやすく、ずる賢い人達は、どうやって良い評価、悪いは評価を偽るか、考えを巡らしています。従来メディアの誤った情報に長けていている、とても成功しているグループがいます。彼らは、しばしば、“front group(最前線集団)”、“influence peddlers(影響行商人)”、あるいは、“ astroturfers(人工芝)”と呼ばれています。そのようなグループを監視する優秀な番犬が、the Center for Media and Democracyです。
One metric of trust is transitive, that is, the trustworthiness of the people who trust someone. If person A trusts you, and person B trusts A, then that might affect how one measures your trustworthiness. However, that gets real complicated when that web of trust involves seven billion people, or even a few thousand. It's a research problem.
ひとつの信頼の測定基準、つまり、誰かを信じる人々の信頼価値は、推移しやすいものです。もし、Aさんがあなたを信じていて、BさんがAさんを信じているとします。そのことが、第三者が、あなたの信頼価値を測るのに影響を与えるかもしれません。しかしながら、70億人を含む信頼の繋がりとわずか何千人では、本当に難しくなります。
それが、調査の問題です。
How do we trust the custodians of trustworthiness? We need to have some confidence that they're not fiddling the ratings, that they're reasonably secure. After all, trust and reputation are really valuable assets.
どうやって信頼価値の保管人を信頼すれば良いでしょう?私たちは、評価指標は合理的に安全であり、彼らが、その指標を偽っていないと確信を持つ必要があります。
I think the solution lies in a network of trust and reputation systems. We're seeing the evolution of a number of different ways of measuring trust, which reflects a human reality; different people think of trust in different ways.
私は、信頼と評判のシステムのネットワークの中に答えがあると思います。私たちは、異なる信頼測定の方法が進化するのをいくつも見てきており、それは、人間の本質を反映しています。異なる人達は、それぞれ、異なる方法で信頼について考えています。
Also, the repositories of trust information are the banks in which we store this big asset. Like any banks, having a lot of this kind of currency confers a lot of power in them. Having some competition provides some checks and balances.
また、信頼情報の保管場所は、この大きな資産を保存する銀行です。銀行のように、たくさんの種類の信用通貨を持つことは、そこにあるたくさんの力を与えます。ある種の競合を生み出すことで、ある抑制均衡(checks and balances)を生み出します。
We need to be able to move around the currency of trust, whatever that turns out to be, like we move money from one bank to another. That suggests the need for interchange standards, and ethical standards that require the release of that information when requested. Perhaps there's a need for new law in this area.
私たちは、どのような結果になるにせよ、ある銀行から別の銀行へとお金を移動させるように、信頼の通貨を頻繁に移動させることができる必要があります。交換尺度(interchange standard)、要求すれば情報が公開される道徳尺度(ethical standard)の必要性を表しています。たぶん、この領域での新しい法律が必要になるでしょう。
Restating the bottom line: we are already seeing a shift in power and influence, a big wave whose significance we'll see by the end of this decade. Right now, it's like the moment before a tsunami, where the water is drawn away from the shore, when it's time to get ahead of that curve.
大前提を改めると、私たちは、力と影響が変化するのを既に見ていて、この時代の終わりまでに大きな波の意味が分かるでしょう。今は正に、津波の前の瞬間のように、浜から水が遠ざかっている状態であり、その湾曲した部分を正に通り過ぎようとしている瞬間なのです。

以上。

注1:この記述の問題について、日本の事情に照らして考えてみると、国民IDに基づいた「存在証明」と深く関連している、と思う。

2010年4月12日月曜日

遅延によるミスリード(Misread)

Twitter を利用する際、自動受信の設定にしておくと、自分がFollowしているユーザの呟きが、あたかもリアルタイムに受信されているような感覚になる。

勿論、ここでいうリアルタイムという表現は、正確ではない。電話で話しているような双方向ではないし、実際には、さまざまな遅延が起きている。しかし、表示されたTL上に並ぶ呟きを読む速さと、時間を追ってTL上に追加されていく呟きの速さが拮抗してくると、時間の流れに、自分だけが遅れているような感覚がある。

Twitter では、ほとんど気づかれることのない軽微な遅延から、サーバ障害と認められるような長時間に渡る遅延まで、頻繁に発生している。遅延の原因には、いろいろな問題が考えられる。もっとも頻繁に発生している遅延は、サーバへのアクセス集中によるものだろう。情報を送信する場合も、サーバ側から情報を受信する場合も、サーバ側で処理しきれない処理が発生する遅延は、「おはよう」「こんにちは」「ただいま」「おやすみなさい」の時間帯に頻発するように起きている。


それでも、Twitter では、こうした障害案内を「クジラ」や「宇宙人」の絵を使って行い、そうした遅延の存在を意図的に周知させようとしている。

遅延によるミスリード(Misread)
男「結婚してくれ」
女「………」
男「僕じゃ、駄目なんだね?」
人と人が向き合って行う会話には、システムのようなものは介在しないので、遅延が起こるはずも無い。だから、問いかけに対する返答の遅れは、それ自体が意味を含む返答として解されることが多い。

ところが、Twitter を利用していると、そうした遅延が原因とも思われるミスリードを見かけることがある。
@man 「今晩はカレーライスを食べに行こうよ」
@man 「カレーライスは嫌いか?」
@man 「じゃあ、ハンバーグでも良いから行こうよ」
@man 「ハンバーグは嫌いか?」
@friend 「ふう。やっと繋がったみたい」
@man 「俺のことは嫌いか?」
Twitter のようなシステム上で共有される空間では、遅延が起こることが一般的である。だから、会話を行う利用者両方の意識として、こうした問題に向き合う必要がある。実際、システム側で発生している遅延は、会話を行う当事者いずれの原因とも思えないようなミスリードを引き起こす。

なぜ、こんなことになるのだろう?

例えば、はがきを使って文通するような状況を考えてみる。はがきは、郵便の流通システムを使って、差出しから送り先に届けられる。その途中で、はがきの内容を知ることはできない。この状況では、遅延が発生しても、とにかく、はがきが届くまで待つことでしか解決されない。
至って、のんきだが、これが良い。万一、はがきが遅れて届いても、はがきが送られたことを知らないうちは、送り主を責めようが無い。はがきを送られたことを知っていたら、たいていの場合、郵便局の窓口にいる方が怒られることになる。

次に、アマチュア無線での会話を考えてみる。ひとつの電波帯域を使って会話をする為、一方の会話が終わらないと、片方の会話を始めることはできない。話し手同士が互いに会話の終わりを明示するような表現
「……です。どうぞ。」
に加えて、
「……ですね。確認しました。どうぞ。」
のように、念を押すことまであって、なるほどと思うことが多い。

ところが、無線機を持って移動することで建物の影に隠れたり、バッテリーが切れたり、何かの障害で、電波が途切れると、遅延が発生する。この場合、アマチュア無線の利用者は、途切れた方への呼びかけを行ったり、相手方の信号出力をチェックしたり、といくつかのチェックを行うことで、まず相手方の安否を確認される。


では、Twitter の場合、どうだろう?

まず思うこと。Twitter 利用者が、アマチュア無線の利用者の方のように対応される姿を見たことはない。だからと言って、はがきを待つほどののんきな対応も無い。

ひとつのテーマに沿って対話的に話すことは、ひとつのボールをキャッチボールする関係に似ている。Twitter のサービスの中で遅延が起きると、会話におけるキャッチボールの関係をいきなり崩れてしまうことがある。また、自分が発信した呟きに対して相手からの返答が遅れたりしても、それを遅延として感じると、矢継ぎ早に、次の呟きを発信してしまうことも多い。
そもそも、少しでも内容が入組んだりする事柄について呟く場合、140文字の中で情報発信することは難しいので、キャッチボールとして投げられるはずのボールは、暫く送られてこなくなったと思っていると、急に、バッティングセンターのピンチングマシーンのように矢継ぎ早にストライクゾーンに投げ込まれる自体を招く。
男「結婚してくれ」
女「………」
男「僕じゃ、駄目なんだね?」
女「………………」
男「わかったよ。もう、終わりだね。」
女「お、な、か………イ、タ、ィ、の。」
男「え?」

自分がミスリードしている可能性については、何度も見直すことが大切だと思う。特に、向き合った相手との関係を大事したいと思うのであれば、尚更のことである。

僕は、自分自身が遅延を感じている時には、敢えて独り言を呟くようにしている。
「遅延?」
これだけでも、随分と他の人には判りやすいはずだと思うのだが、どうだろう?

2010年4月10日土曜日

パラグラフ

パラフレーズミスリードに触れたので、パラグラフについて書いてみる。

複数の辞書にあるパラグラフの解釈文をみると、概ね、以下のようになる。
  • 文章を節または段落にわけること。
  • 新聞・雑誌などの短い記事を書くこと。
  • 寸評を書くこと。
  • 簡潔にまとめること。
僕は、パラグラフに接する時、
  • 文字量の制約の中で書かれているか?
  • 引用・参照を含んでいるか?
  • 発信者の立場はどこにあるか?
の点に留意している。

文字量の制約の中で書かれているか?
文字量の制約を受けることで、多少なりとも、パラフレーズする必然性が出てくる。例えば、Twitterでは、140文字以内というの文字量の制約がある。その為、パラグラフは、頻繁に起こる。また、文字数を減らした表現が増える。
多謝。同意。爆。笑。
のような表現をはじめとして、
僕は夕飯を食べたから、お腹がいっぱいだ。(20文字)
夕飯を食べて満腹だ。(10文字)
のように、文意を残しながら縮約されることが多い。この際、前後の会話の流れから推測可能な要素は省略されることが多い。これは、日本語の特性で、俳句のようなものは、その典型的な表現だろう。然し、このような特性が、パラグラフが行き過ぎると、何かと問題を生むことが多い。


引用・参照を含んでいるか?
文字量の制約の中で引用・参照を行うことから、その選択には、パラグラフの書き手(情報発信者)の恣意的な選択が委ねられる。その際、重要なことは、引用・参照の原典となる情報が参照可能かということ。

例えば、ある事件を伝えるパラグラフがあったとする。そのパラグラフには引用があり、その引用の原典を参照できない場合、このパラグラフの信頼性は怪しいものになる。だから、引用も無いのに、
信頼できる筋、消息筋
といった表現が含まれる情報を鵜呑みにすることは危険きわまりない。


発信者の立場はどこにあるか?
最終的な情報の価値を決めるのは、発言者のスタンスが明確に示されているか、だと思う。
情報発信者と情報内容が同じとは限らない。この点は、パラグラフが繰り返されると、深刻な内容変質を引き起こす。
夕飯を食べたから、僕はお腹がいっぱいだ。
夕飯を食べて満腹だ。
それぞれの文章が、発言者(僕)が明らかな状態で引用された場合を考えてみる。
前文では、発言者(僕)が空腹であることが判る。
後文では、誰が空腹であるか判らない。
勿論、引用文の原典が参照できる状態であれば、その情報の信頼性を見いだすことも可能になるが、それができない場合、思わぬ意味が付加されるかもしれない。

二人のユーザ(@manと@friend)が会話している状況を想定してみる。
@man 夕飯を食べたから、僕はお腹がいっぱいだ。
@friend 今日は何を食べたの?
@man 天ぷらさ。天ぷらは、揚げたてを食べさせてくれるんだ。
@friend 良い身分だなあ。
@man だから、僕が食べ終わって、家内は食べ始めるんだ。
次に、二人のユーザ(@manと@friend)の縮約された会話。
@man 夕飯を食べて満腹だ。
@friend 今日は何を食べたの?
@man 天ぷらさ。
@friend 良い身分だなあ。
@man 僕が食べ終わって、家内は食べ始めるんだ。
前者の会話では、おいしい手料理を振る舞う妻の姿が思い浮ぶ一方で、それを自慢するうれしげな夫(@man)の姿が見えてくる。一方、後者の会話では、妻への配慮も無く、自己中心的な夫(@man)の姿が見えてくる。

更に、それぞれの会話をすべて引用(QT)してみると、最後の会話を終えた時点で呟きは、このようになる。
@man だから、僕が食べ終わって、家内は食べ始めるんだ。 QT @friend 良い身分だなあ。 QT @man 天ぷらさ。天ぷらは、揚げたてを食べさせてくれるんだ。 QT @friend 今日は何を食べたの? QT @man 夕飯を食べたから、僕はお腹がいっぱいだ。(135文字)
@man 僕が食べ終わって、家内は食べ始めるんだ。QT @friend 良い身分だなあ。QT @man 天ぷらさ。QT @friend 今日は何を食べたの?QT @man 夕飯を食べて満腹だ。(96文字)
前者の呟きには、特段の違和感を感じない。一方、後者の呟きはどうだろう?

仮に、第三者が、後者の呟きを再度、情報発信した場合、それを見た人はどのように思うだろう?
@bigmouse 気づかね夫。QT@man 僕が食べ終わって、家内は食べ始めるんだ。QT @friend 良い身分だなあ。QT @man 天ぷらさ。QT @friend 今日は何を食べたの?QT @man 夕飯を食べて満腹だ。(96文字)
冒頭に述べたように、多くの場合、TL上に並ぶ呟きはパラグラフだから、上記の点を留意されることをお薦めする。前後の文脈から切り離された呟きだけを見て、その途中過程での悪意のある改竄、改変の可能性を疑わないことは、危険だ。

僕は、前後の文脈から切り離した情報の読み取りは、日本語本来の特性にそぐわないと思う。できうる限り、情報だけでなく、その情報が発信された文脈について関心を払うことが望ましいと考える。仮に、情報を鵜呑みにした損失が出ても、その責任は情報受信者の側にある。

くれぐれもご留意頂きたい。

2010年4月9日金曜日

ミスリード(Misread)

  • 〜と読み違える。
  • 〜と誤解する。
  • 〜の解釈を誤る。
情報発信の段階でパラフレーズが起きるように、情報受信の段階でミスリードは起きる。然し、これとは別に、長い間、ミスリードしていることに気がつかずに放置されていたこともある。

言語解析の論文を読んでみると、辞書の「見出し語(Lemma)」に続く文章は、「定義」ではなく「解釈」と表現されている。いくつもの出版社が国語辞典を出していて、それぞれに異なる編者が存在する。ひとつひとつの言葉の意味をどのように解釈しているか、その違いがあって当然なのだが、どこか辞書の「解釈」を「定義」のように絶対視する人がいる。これも、やはり、ミスリードなのかもしれない。

本来、ミスリードとは、情報受信のその瞬間、その都度起こるはずだが、こうした長い期間に渡って起きている記憶には、ミスリードにも似た落とし穴がある。

ミスリードが起きる要因について考えてみる。

その最も大きな要因は、情報受信者のそれまでの経験の中での意識的・無意識的な学習によるものと思われる。例えば、ある単語に対するある解釈を行ってみたところ、意味が通じたとしよう。別の機会に、同じ単語をみて、前回うまく通じた「解釈」を当てはめてみる。こうした経験が何度か繰り返されると、その単語の「解釈」が、あたかも「定義」のようなものの「錯覚」に陥ってしまう。

ソーシャル・ジャーナリズムの空間」においても、ミスリードの問題が起こりうることを意識しておくことは、とても大切だと思う。
Twitterでは、呟き(一度に発信できる情報)の文字数に、140文字という文字制限がある。携帯電話のショート・メッセージ・サービスの文字数が160文字であった為、これから宛先分に割り当てる20文字を差し引いた結果、140文字に決まったようだ。
僕は、140という文字数は、はがきやメモ用紙に書かれる文字数の平均値に由来するのではないか?と考えている。

仮に、はがきとして考えてみる。はがきの限られたスペースの限界に挑むように文字を書くぐらいならば、便せんに文字を認めるだろう。

ところが、はがきにばかり気持ちが言ってしまうと、なかなかうまく行かないことがある。なんとか思いを伝えようと言葉を書き急ぐと、はがきに収まりきらない思いが溢れてしまう。同様に、はがきに書かれた言葉を慌てて読み急ぐと、はがきに込められた思いを見落としてしまうことになる。

米国のカフェでは、コルクボードを使った伝言板があるのをよく見かける。僕は、このような伝言板に貼られたメモが切っ掛けとなって、Twitterの世界に再現されているように思えてならない。メモには、自分の発信する情報に目を留めてもらう為の創意工夫がたくさんあって、とても楽しい。

Venessa Miemisさんの「ソーシャル・メディア」の中に、以下のような文がある。
Architecture may be a combination of form and function, but it’s also a representation of the cultural, political, and economic flavor of its time.
建造物とは、形態と機能の組み合わせですが、その時代の文化的、政治的、経済的、特色を表現しています。
はがきであれ、伝言板に貼られたメモであれ、その形態と機能(form and function)による制約があり、その時代だからこそうまくいく(いっていたはず)の「錯覚」が無いかを考えて見る必要がある。

ソーシャル・メディアを通じて、僕たちは、ひとりひとりの気がついた価値を共有できるようになっている。だからこそ、自分が認める価値についてしっかりと捉えておくことは大切だと思う。マーシャル・マクルーハンが言ったように、「メディアはメッセージ」だから、それぞれの価値観に照らして、ソーシャル・メディアを利用するのが良い。メッセージとは、この時代に生きるひとりひとりが、その価値を認めた情報なのだから。

僕は、受け取った情報をミスリードしない為にも、僕の価値観に何度も照らしてみる。すると、言葉の言葉の間に、僕の知っているあの送り手が書きれなかった思いを見つけることができるかもしれない、と思うから。

2010年4月7日水曜日

ソーシャル・メディア - Venessa Miemis

Venessa Miemisさんが書かれた、「What is Social Media? [the 2010 edition]」というブログの訳してみた。ブログの日本語への翻訳と掲載許可を頂き、更に、画像についても許可を頂いた。

英語だけで読んでいると納得していたことが、日本語にしてみて、合点がいかなくなることも多いので、ある部分では、文脈が通るように訳した。問題点については、是非コメントを残して欲しい。勿論、気づかれた点などがあれば、是非、コメントをお願いしたい。

では、はじまり。
What is Social Media? [the 2010 edition]
by Venessa Miemis, JANUARY 4, 2010

Organizations are still scratching their heads about how to implement a social media strategy into their business plan and how to measure ROI, educators are wondering how to bring it into the classroom, marketers want to spam the hell out of it, and the layperson just wants to connect and share.
(さまざまな)組織では、どうやってビジネス・プランにソーシャル・メディア戦略を盛り込むか、あるいは、どうやってROI(投資収益率)を測定するか、頭を抱えています。教育者達は、ソーシャル・メディアの空間をどうやって教室に持ち込むか悩んでいます。マーケティング担当者は、潜在的顧客から望まれていない迷惑メールをひたすら送ろうとしています。一般の方(the layperson)は、ただ、ソーシャル・メディアの空間に繋がって、ソーシャル・メディアの空間を共有することを望んでいます。
There are many levels of experimentation going on in the space, and there will be for years. But I wonder, is there a bigger picture here that might indicate what all this means? Most of us here, who seem to co-exist on and offline, feel pretty comfortable that we “get” social media. Or we think we do. But do we really understand what these tools represent, and what they enable? I’d like to share my view of what seems to be happening. I’m going to try to provide a context and make some connections. If it seems unrelated at first, just bear with me, I’m going to do my best to bring it all home in the end.
そ(ソーシャル・メディア)の空間では、さまざまなレベルでの実験があり、この先何年か続くでしょう。しかし、私は、ここ(ソーシャル・メディアの空間)には、この空間が意味することを示す、もっと大きな絵があるのではないかと感じています。ここにいる我々のほとんどは、オンラインでも、オフラインでも、共存し、我々はソーシャル・メディアを“得ている”と少し快適に感じているようです。あるいは、私たちはやれてるって思っています。しかし、私たちはこれらのツールが何を意味しているのか、そして、それによって何ができるかを、本当に理解しているでしょうか?私は、何が起きようとしているのか、私の見解を共有したいと思います。私は、ひとつの前後関係を供給して、ある繋がりを作っていこうとしています。最初に関わりがないように思えても、是非私と一緒に頑張りましょう。私はベストを尽くして、最後には皆さんを帰るべき場所(home)に連れて行くつもりです。

What is media?
メディアとは何か?
Ok, before we talk about social media, just a quick overview of ‘media’ in general. By definition, media is the plural of medium. So that means it’s an intermediary, it exists between two things. We think of “the media” in terms of it being the delivery system between news and us, or the message and its audience.
ソーシャル・メディアについて話す前に、一般的に、メディアの簡単な概要についてお話ししましょう。定義では、メディアとは、中間の複数形です。それは媒介者ということを意味していて、二つのものの間に存在しています。私たちは、ニュースと私たちの間、あるいは、メッセージと聴衆の間にある流通システムと関連づけてメディアのことを考えています。
But think about the world around us. About everything manmade. Isn’t it all a media in some way? You could say we live in a fully mediated environment, in that we as human beings have literally constructed our realities around us, with almost everything serving as a representation of something else.
でも、私たちのまわりの世界について考えてみてください。すべてのモノがに人によって作られています。どのようにしてメディアは、人の手によって作られているのでしょう。あなたは、私たち人類は、身のまわりにあるもの(reality)をひとつひとつ組み合わせた、完全にメディアな環境(a fully mediated environment)の中に住んでいて、何か別のものを表現しているたくさんのものと一緒になっている、と言うはずです。
Think about the way we’ve constructed our physical realities through buildings and cityscapes. Architecture may be a combination of form and function, but it’s also a representation of the cultural, political, and economic flavor of its time. It represents power, beauty, and often the ideal of perfection or divinity. (Many great structures seem to have been built in accordance with the golden ratio, or ‘divine proportion,’ a proportion found in nature and associated with aesthetics.) So as media, our built environment tells us stories about who we are, our ideals, and our values.
建物や都市景観を通して、私たちが築き上げてきた物質的本質について考えてみます。建造物とは、形態と機能の組み合わせですが、その時代の文化的、政治的、経済的、特色を表現しています。力、美しさ、成熟、あるいは神の理想を表現しています。(たくさんの偉大な構造は、黄金比、あるいは、自然の中に見いだされる‘神聖な比率、’と一致するように建造されており、美的感覚を連想させます)メディアとして、人類が築いてきた環境は、私たちが誰であり、私たいの理想とするもの、私たちが価値を見いだすものについて語りかけます。
We see this in imagery as well, as we construct our social realities. From the iconic photographs we circulate to represent our memory of history,
私たちは、イメージとして見るだけでなく、社会的な本質と組み合わせます。偶像視される写真から、私たちは、歴史的な記憶を読み取ろうとして、
to our ideas about popular culture,
大衆文化についての概念、
to the products we buy and where we buy them and what that says about us,
私たちが買う商品とそれを何処で買い、それが何を伝えているか、
to the propaganda that influences our political views and cultural ideals.
私たちの政治的な見解や文化的な理想に影響を与える政治的な宣伝に辿り着きます。
The point is that much of ‘reality’ is an illusion, insofar as it is the collection of symbols and stories that we are told and that we tell each other. We collectively agree upon them, and so they become real.
重要な点は、多くの本質は幻想であるということです。象徴的なものをかき集めること、私たちが伝えられて来た話、私たちが互いに話し合うことも、多くの本質は幻想です。

So what’s social media?
では、ソーシャル・メディアとは何か?
OK, so we did the crash course in media studies, now back to social media. Why is social media so interesting and incredibly powerful?
OK。では、私たちは、メディア研究の破壊コースをやってきたので、今から、ソーシャル・メディアに戻ります。なぜ、ソーシャル・メディアは、とても興味深く、本当にパワフルなのか?
In the short history of communication technologies, information was usually limited to flowing from one to one (telephone) or from one to many (radio, television). Then the internet came around and became a read/write web (“web 2.0″), characterized by applications and services that have given us the ability to create and share information. It allows for many-to-many communication, connection on a global level, and signaled the beginnings of a networked culture.
通信技術の短い歴史の中では、情報は、いつも、一方から一方へ(電話)、あるいは、一方から多方へ(ラジオ、テレビ)流れるように制限されていました。インターネットがやって来て、読み/書きが可能なWeb(“Web 2.0”)になると、独創的なアプリケーションとサービスによって、私たちは、情報を作ったり、共有する能力を与えられました。
Through blogs, wikis, social bookmarking, photo sharing, and social networks, we are creating windows into each other’s lives and minds. Communities are forming around ideas, hobbies, causes, and any kind of organizational affiliation imaginable.
ブログ、Wiki、ソーシャル・ブック・マーキング、写真共有、そして、ソーシャル・ネットワーク・サービスを通じて、私たちは、それぞれの生活と心の中に、いくつもの窓を作ってきています。アイデア、趣味、(社会的な)理想、さまざまな想像可能な組織的提携のまわりには、コミュニティーが作られています。
Then we decided we wanted even faster access to information, faster access to news, faster access to public opinion, and faster access to each other. Enter Twitter. Wikipedia calls it a social networking and micro-blogging service, but I think of it more like an Information & Idea Exchange. There was a nice write up by David Carr about the service in the New York Times the other day, titled Why Twitter Will Endure, which will give you a nice overview of what it’s all about. You can also check out the experiment @ekolsky and I did the other week by searching the hashtag #MonTwit; we sent out a call for anyone interested to write a post on the same day about what they’d discovered about Twitter. We ended up with 20 some blog posts and another handful of responses in tweet form. Not a bad turnout for about 15 seconds of planning. For some practical business tips about how to use Twitter, check out this article in Forbes.
私たちは、情報へのより高速なアクセス、ニュースへのより高速なアクセス、公的意見へのより高速なアクセス、私たちひとりひとりへのより高速なアクセス、を望んでいたと断言します。Wikipediaは、社会的なネットワーキングとマイクロ・ブロギンング・サービスと呼び寄せています。しかし、私は、情報とアイデア交換のように考えています。先日、New York Times にDavid Carr 氏の素晴らしい記事がありました。なぜTwiterは持続するのか?というタイトルで、Twitterがどのようなものであるか、よくまとめられた概要がありました。また、皆さんは、@eklsky 氏と私の実験をみることができます。先週、私たちは、Twitterについて発見したことについて、その日のうちに投稿することに興味がある方へ呼びかけを送っていたので、#MonTwitというハッシュタグを検索してみました。私たちは、結局、20個のブログによる投稿と呟きの形での、いっぱいの反応を貰いました。およそ15秒の計画にしては、悪い反応ではありませんでした。Twitterをどうやって活用するかという、具体的なビジネス活用法は、Forbes 誌のこの記事を見てください。
But essentially, Twitter is a communication platform that’s comprised of just about 100 million people located around the world. And unlike any other network, when you’re on Twitter, you’re in the same room with every other person on Twitter. It’s like a pulse of what people are collectively thinking about, and so in some ways, becoming a kind of global consciousness. We’re connecting with peers around the globe and exchanging tips for business practices. We’re connecting with educators and researchers and scientists and discovering new ways of teaching and learning. We’re being exposed to each other’s perspectives on the world, and our capacity for empathy is expanding.
基本的に、Twitterは、世界中に住む1億人から構成されているコミュニケーション・プラットフォームです。他のネットワークには無い、Twitter 空間にいると、Twitter 上の他のユーザと同じ空間にいます。それは、人々が集団となってどんなことを考えているのか、正に(その集団の)態度のようであり、ある意味では、地球意識のようなものになっています。私たちは、地球上の友人達を繋いでいき、ビジネスの実戦に向けた秘訣を交換しています。私たちは、教育者や、研究者、科学者達と繋がり、教えることや学ぶことの新しい方法を見つけようとしています。この世界で、お互いの世界観に触れようとしていて、私たちの共感する力(empathy)は拡大しようとしています。
Sure there’s misinformation, spam, and useless junk too. Just like anywhere. It just means our ability to scan information and critically evaluate its validity will grow to be an ever more important skill.
間違った情報があることも確かですし、スパムや意味の無いジャンクもあります。何処にでもあることです。情報を拾い集める能力と情報の妥当性を批評的に評価する能力はより発達して、もっと重要な技能になるはずです。
But there is something happening here that is truly unprecedented in human history. Never has there been a potential for all of us to be connected like this. And the implications are huge.
しかし、ここで起こっていることがあります。それは、人類の歴史の中で、本当に奇抜なことです。この(Twitter)ように繋がることは、私たちの誰にとっても、決して起こるはずの無いことでした。密接なかかわり合い(the implications)はとても大きなものなのです。
So what’s social media? It’s the opportunity to create shared vision.
ソーシャル・メディアとはなにか?それは、共有されたビジョンを作り出す機会です。
All these platforms are just the tools, but look what they enable. In the way that mass media has shaped our perceptions about culture, politics, and society, now social media also has that ability. But the message isn’t traveling from them to us, top down, from the aristocrats to the plebes. It’s moving from us to us.
これらすべてのプラットフォームは、単なる道具です。しかし、それが実現するモノを見ましょう。マス・メディアが、文化、政治、社会に対する我々の認識を形作ってきたように、そして、ソーシャル・メディアは、そうした能力を持っているのです。しかし、あなたにとって価値のある情報(メッセージ)は、情報の側から、あなたに向かってやってくるものではありません。上から下へ落ちてくるものでもありません。貴族社会の一員(the aritstocrates)から、軍隊の最下級兵(the plebes)へと落ちてくるものでもありません。
We are living in a time of tremendous change; global systems are collapsing (economic, political, environmental) and opportunities for better systems to emerge are being revealed. People are waking up and aching for a new way to understand what’s happening and to be participants in shaping the outcome.
私たちは、途方も無く大きな変化の時間の中に生きています。地球規模のシステムは、(経済的に、政治的に、環境的に)崩壊しようとしています。浮き彫りになるより良いシステムを暴露されるのにちょうど良い機会です。
If you’re using social media as part of a new vision for your organization (social business design, social CRM) or as an addition to your personal learning network (PLN) or to empower people or to build and spread ideas, you get it. We’re growing into a global human network, and we’re able to begin constructing our own reality. ‘The way things work’ isn’t set in stone, it’s a social agreement. So many aspects of the way we work, the way we live, and the way we relate to each other are products of the systems that are currently in place. When we start experimenting with new ideas put together in new ways by new groups of people (and failing often), eventually we’ll figure it out – it’s how innovation happens. At so many levels, as a species, we are at a pivotal time in history where we can collectively design a new future.
もし、あなたが、あなたの組織(ソーシャル・ビジネス・デザインやソーシャル・カスタマー・リレーション・マネージメント)の新しいビジョンの一端としてソーシャル・メディアを使っているのであれば、あるいは、あなたの個人的な学習ネットワーク(PLN)に加えるつもりでソーシャル・メディアを使っているのであれば、あるいは、人々の能力を向上させようとしてソーシャル・メディアを使っているのであれば、あるいは、アイデアを組み立てて拡散する為にソーシャル・メディアを使っているのであれば、判るはずです。私たちは、地球規模の人間的なネットワークを発達させようとしていて、私たちは、私たち独自の本質(our own reality)を積み上げることができるはずです。‘そのもの本来の力’は、石(のように凝り固まったもの)ではありません。それは、社会的な合意によるものです。私たちの行ってきたやり方、私たちの生きてきたやり方、私達がお互いを関連づけるやり方、そのさまざまな面が、今、現在、それぞれの場所に置かれたシステムによって生み出されたものです。私たちが、新しいグループによる新しい方法でまとめる、という新しい考え方で実験を始めようとすれば(たまに失敗するにせよ)、偶然、私たちは、そうやって技術革新が起こるかが、わかるでしょう。さまざまなレベルで、人類として、私たちは、新しい未来を集合的にデザインできるという、歴史的にも、とても重要な時間にいます。
If every world-changing set of actions is set in motion by an idea, and this new form of communication allows us to plant the seeds for those ideas to blossom and take shape, then those folks at the beginning of this post are on to something – it truly could be a decade characterized by frustration, imagination, and transformative change.
もし、ひとつのアイデアから、すべての世界を変える一連の動きがはじまり、コミュニケーションの新しい様式を通じて、私達は、花を咲かせ具体化するアイデアの種を撒くことができるようになります。やがて、この最初のアイデアの時点に集った仲間達は何かに気づいています。−それは、欲求不満、想像力、変化力のある交替によって特徴づけられる時代(decade)になるはずです。

以上。

2010年4月6日火曜日

ラジオ番組の将来

ラジオ番組のストリーミング放送がインターネット上で聴けるようになったので、ラジオが無くても、パソコンや、iPhoneのようなスマート・フォンで聞くことができる。

僕は、ヘッド・フォンを使わずにラジオ番組や音楽をiPhoneで聴くのが好きだ。音質が落ちるのにという声もあるかもしれないが、トランジスタ・ラジオのような少し割れた音に、何とも言えぬ哀愁があるからだ。

ラジオを聞いていると、随分と昔に引き戻され、何処かワクワクしている自分がいる。


ほんの最近、深夜のTwitter上での出来事。

だんだん夜が深まってくると、あるラジオ番組用のハッシュ・タグが付けられた呟きが、画面上にちらほらと現れ始める。

同じラジオ番組を聴きたいと思っている人達が、ラジオ番組が始まる時間に前後して、今日のテーマを確認したり、用事を済ませようとしている、などの、慌ただしい呟きが増えてくる。勿論、番組が始まれば、それはそれで、番組に同時進行するように、呟きが行われていく。

僕の使っているパソコン用のディスプレイは、20インチなので、Twitter用のアプリケーションを画面いっぱいにして使うと、いろいろな呟きが、いろいろな切り口からされていることを目の当たりにできる。


ラジオ番組が始まる。

最近のリスナー参加型ラジオ番組では、Twitterと連動することを意識しているようだ。さっきから、番組パーソナリティーが、Twitterで呟かれている内容に反応して話をしている。電話で待たされている別のリスナーがいると思うと、新旧の双方向があることは興味深い。どちらかだけではない、さまざまな可能性があることは間違いないだろう。

番組の途中で、パーソナリティーが奇妙なことを言い始めた。
「〜で、ラジオでお聴きの方は、インターネットではストリーミング放送をしていますので、そちらをお聞きください。」
この案内を聞いて、ラジオの置かれた状況が変化している、ことに気づく。意外なほど、あっさり。
「(最初から)インターネットで聴くと、ラジオのような不便は無くなりますよ。」
それは、言えない事情がある。
ラジオだからこそ、手軽に聴ける。
というアドバンテージ。
電波という公的資源を使えば、時間制約は免れない。
というディス・アドバンテージ。

とは言え、ラジオ番組のストリーミング放送自体は、パソコンとそれに内蔵されたマイク、スピーカー、専用のアプリケーションがあれば、誰にだって始めることができるのも事実だ。

Twitter上で知り合った方が、ストリーミング放送をしているので、制作環境について質問してみると、Skypeと呼ばれるインターネット上の電話ソフトを使って対談し、その電話内容を録音したモノそのままを番組コンテンツとして利用しているそうだ。

それは、面白い。

電話を録音した番組は、二時間近い長電話になっていたが、時間的制約が無いことで、可能性が広がるのは、もっと面白い。

Skypeに限らず、どんどんインターネットと組み合わせるのが面白い。

こうしたラジオ番組では、音声をデジタルに変換して送信しているだけなので、それを画像に切り替えることはたいして問題ではない。勿論、設備だとか、放送に使用する接続環境の問題などがあるのは承知しているが、ユーザからの需要があれば、それをベースに広告や新しいビジネスモデルを作れば良い。

実際、Ustreamのように動画ストリーミング放送は、既に存在している。

アプリケーション環境さえ揃えば、特定のURLを番組進行に併せて案内することや、ラジオ番組のホームページ上で、番組開始に併せて、適当な図表などを案内することができれば、更に大きな可能性が広がる。


もっとも、気になることが無い訳ではない。

ストリーミング放送であれ、図版であれ、コンピュータを使った通信はすべて、特定のアドレスとアドレスを接続することで確立されている。インターネットでは、IPアドレスと呼ばれるものがそれにあたる。だから、自分が誰なのかを明かしたくないと思っても、アドレスが相手に伝わってしまうことがある。

実は、これが厄介。

居住先や滞在先の住所が個人情報として扱われるように、アドレスも個人情報として考えるべきと思う。

これも、解決方法が無い訳ではない。実際、「存在証明」でも触れた、「番号に関する原口五原則(国民ID)」には、以下のような記述がある。
原則2 自らの情報を不正に利用・ストックされず、確認・修正が可能な、自己情報をコントロール出来る仕組みであること
コントロールする仕組み自体について噛み砕くことは敢えて割愛するが、「存在証明」を明らかにすることで、開示したくない情報を開示させない権利が生まれることは知っておくべきだろう。

この権利は、件のラジオ番組を想定して話をすれば、以下のようになる。

ラジオ番組のストリーミング放送にアクセスしている現状、僕が契約しているプロバイダーは、僕が使用する為のアドレスを振り分けている。プロバイダーは、ラジオ局のアドレスと僕のアドレスを繋ぐ仲介として考える。ラジオ局は、リスナーのアドレスをプロバイダーと契約している誰かの者とまでは特定できるが、それ以上のことは、リスナーである僕自身が許可を与えなければ、プロバイダーでさえ、ラジオ局に公開できないという権利。

僕の「存在証明」を行う機関が、プロバイダーで無く、別の組織であれば、プロバイダーは、契約に必要な最低限の情報だけを、その組織から、僕の許可に基づいて取得することが可能になる。

僕のサインひとつで、どんなサービスへの支払いでも可能になるクレジット・カードの利用形態に近いと考えるとイメージしやすいだろう。

例えば、僕の「存在証明」を行う機関が、クレジット・カード会社であり、プロバイダーがホテルで、ラジオ局がホテル最上階にあるレストラン、といった状況に置き換えてみる。

レストランで食事をする時、直接支払いすることはできる。然し、ルーム・キーを見せてホテル滞在者であるという「存在証明」を行えば、レストランへの支払いはホテル代の清算と一緒にすることができる。ホテル代の清算を行うのに、クレジット・カードによる「存在証明」を行えば、クレジット・カードの支払いをさまざまな支払いとまとめて行うことになる。

お金を支払う許可を与えるように、個人情報を開示することができるようになることが、国民IDの重要な点だろう。


さてと、気分転換に音楽でも聴こう。

今日は、RCサクセションのトランジスタ・ラジオがいい。

2010年4月4日日曜日

コミュニティーとコロニー

コミュニティーとコロニー
Twitterは、どちらに近いのだろうと疑問を持つことがしばしばある。僕の中では、ソーシャル・ネットワーク・サービスそれ自体は、コミュニティーであるべきと考える。しかし、その実体はどうかと言えば、冒頭の対立軸が生まれる。

コミュニティー(community)の定義は、広義には、
  • (地域)共同体
  • (地域)社会
  • (共通の利害を持つ)社会、団体、グループ
狭義には、
  • 群落(生態学)
がある。

一方、コロニー(colony)の定義は、広義には、
  • 植民地
  • 植民国家
  • 居留地(同じ民族や思想を持つ人から構成される)
  • 共同体(共通の職業や目的意識を持つ人から構成される)
狭義には、
  • 同じ種類の動植物が共生している状態(生態学)
  • 単細胞生物の集まり(微生物学)
と言える。
一見、どちらにも似たような概念を含んでいるようにも見えるが、
意識的な統治
という切り口で境界を引けないかと思う。共同生活を考えた場合でも、同じ空間を共有する者同士でルール設定をする場合と、しない場合。僕の考えでは、コミュニティーとコロニーで分けられる。

「無縁=freedom」という切り口から社会を捉えようとすると、都市伝説のような感覚だけが蔓延するように感じるので、個人的にはあまり共感を覚えない。僕は、「縁」とは、人と人の偶発的な出会いと捉える。こうした発想の背景には、仏教的な思想が影響しているのだろうか?どのような背景があるにせよ、偶発的な出会いに感謝することはあれ、その出会いの上に何を築こうとするかが大切なのではないだろうか。

偶発的な出会いによって、コロニーが発生したとしても、そこに関わるもの達が「意識的な統治」を指向すれば、コミュニティーに変わっていくことは、可能と考える。

その為に必要なものは何か?
正論としてのメッセージ
では無いだろうか?こうしたメッセージを出し合い、そこにより建設的なルール設定が行われることが望ましいのではないだろうか?

「無縁=freedom」は、「freedom=自由」に改めておきたい。

自由には、以下のような定義がある。
他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。

2010年4月3日土曜日

正論としてのメッセージ

ソーシャル・キャリアーの活性化の条件」へ、
ソーシャル・サブスクライバー、ソーシャル・キャリアーなどの概念、とらえ方が非常にユニークですね。情報発信者と流通経路、摂取者の流れはこういういくつかのポイントで語れるのかもしれません。
というコメントを頂いたので、僕なりに噛み砕いてみる。

まず、頂いたコメントにある言葉のうち、ポイントになる言葉を抜き出す。
  1. 情報発信者
  2. 摂取者(以下、情報摂取者とする)」
  3. 流通経路
僕が使っている言葉にパラフレーズしてみる。

情報発信者
「情報発信者」は、文字通り、情報発信者として考えて問題ないだろう。しかし、僕は、この情報発信者には2種類の役割を指摘しているので、注意して欲しい。
情報摂取者
「情報摂取者」は、「価値のある情報(メッセージ)」として情報を受け取る者(受信者)として考えて問題ないだろう。「価値の無い情報(ノイズ・スパム)として情報を受け取る者は、これに含まれない。だから、すべての情報受信者(ソーシャル・サブスクライバー)でないことに注意してほしい。

流通経路
ソーシャル・ジャーナリズムの空間」を情報が移動するには、ソーシャル・キャリアーが重要な役割を果たしていることは、「メッセージのベクトルと持続性」で述べた。受け取った情報の価値を認めることで、次の情報発信が行われることから、情報が伝播してきた軌跡を「流通経路」として捉えることができる。

僕は、「流通経路」という言葉を使われていることに興味を覚える。

メッセージのベクトルと持続性」で述べたように、ソーシャル・サブスクライバーが、「価値のある情報(メッセージ)」として情報を受け取らなければ、ソーシャル・キャリアーに変わることはないし、情報発信が行われることはない。従って、ソーシャル・ジャーナリストから送られてくる情報に、ソーシャル・キャリアーを活性化させる情報が含まれる確率(条件付き確率)を計算していくと、「流通経路」の発生確率を予測できるはずである。

ソーシャル・ネットワーク・サービスでは、すべてのユーザが発信する情報は閲覧可能な状態にあるので、それぞれのユーザの興味対象を個別に解析しておけば、理論上は可能になる。

だが、こうした膨大な量の計算をしなくとも提言できることがある。
それは、
善くも悪くも、正論であること。
あたかも価値のあるようなことを言って見ても、ソーシャル・ネットワーク・サービスのユーザ達は、正論であるかどうかを判定する極めて高性能なフィルタリングを行っているので、素早く、しかも、広域に、「価値のある情報(メッセージ)」を淘汰させる。勿論、そのどちらにも当てはまらないような情報は、いとも簡単に消え失せる。つまり、誰にも反応されない。

また、さまざまな知識、経験を持つソーシャル・サブスクライバーが、いろいろな価値観を持っている為に、反面教師となるような悪い情報も「価値のある情報(メッセージ)」として発信することがある。実は、この行為が、より何が価値のある情報なのかを浮き彫りにさせる効果を持っているように思う。

扇情的に飾り立てるような美辞麗句も、高みから見下ろすような専門用語も、ふざけたような言葉も、乱暴な言い切りも、ぼくとつとした言葉であっても、情報発信者が正論として考えていることであれば、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、それがメッセージとなりうる。

もう一度だけ言う。
善くも悪くも、正論であること。