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2010年4月29日木曜日

「悪い記憶」でなければ、「良い記憶」なのか?

Twitterのようなソーシャル・メディアによって、
世界はどんどん小さくなっている。
勿論、実体としての現実世界の大きさはなにも変わらない。

然し、ソーシャル・メディアを介して、現実世界では出逢う機会などあり得ない人と出逢うことは、これまでになかった特別なことに違いない。その上で、自分と出逢った相手との共通する価値観に気づけば、これまで遠い世界の果てにあった相手をとても身近に感じるようになり、自分と世界との繋がりが密接にあるように感じる。

一方、こうした出逢いが生まれる同じ空間で、自分の価値観と異なる人間を反射的に切り捨てるようなことをしていると、
世界はますます大きくなってしまう。
つまり、ある価値観で対立したとしても、相手の存在を既に知ってしまった上で、意識的に相手の存在を遠ざけることは、自分と世界との繋がりは疎遠にあるように感じさせる。


若者はなぜ生きづらいのか?
社会学者の鈴木謙介さんへの乾広輝さんのインタビュー記事、「若者はなぜ生きづらいのか?」に、
…高度成長を前提にしたライフスタイル…
…ほんの数十年の間に起こった出来事を、僕らは“普通の生き方”と認識してしまった。具体的には、「いい学校に入れば、いい会社に入れて、老後までいい生活が送れる」というものですね。今の若い人はそうしたモデルをあまり信用していませんが、それ以外の生き方を思い描くことができないので、どうしていいか分からない。…
とあった。
人は、自分が経験した「良い記憶」に基づいて行動する。
自分が経験した「良い記憶」を持っている親が、自分の子供に、特定の行動をとるように促したとしても、何も不思議はない。そして、子供の立場からすれば、親が用意してくれた現在の生活、あるいは、その事実を否定するモノは何もない。だけど、親の経験に匹敵するほどでなくても、自分自身の経験を元にしなくては、行動に踏み出せないことも容易に想像がつく。

記事は、
1世代だけだったら、お父さんと子どもの違いだけで良かったんですが、2世代またいでしまうと、「おじいちゃんもお父さんもそうだったけれど、自分は違う」という形で、“普通”イメージが強化され、ますますモデルが見えにくくなってしまう…
と指摘している。

親の立場からすれば、自分が生き抜いてきた経験が「良い記憶」という場合も多分にあるだろう。然し、子供の立場からすれば、親たちが言う“普通”イメージに共感を覚えないのだと思う。

日本システムのゾンビ化
記事には、他の国々の事情とは異なり、長い期間に渡って日本の雇用システムが維持されてきた指標として、以下の「完全失業率の推移」のグラフが添えられている。


鈴木さんは、家庭、企業、地域、国といったある規模の生活圏を一つのシステムとして捉えているようだ。その上で、若者たちが、
不景気になればなるほど、システムを批判するのではなく、システムに自分を合わせようとしてしまう。
と指摘する。

先進国における完全失業率の推移を比較すると、日本は、欧米のような浮き沈みこそ数値となって現れていないが、徐々に疲弊してきている状況にあることが判る。

記事は、
…大学2~3年ぐらいまでは調子いいことを言っていた奴が、3年の夏ぐらいから突如真面目な就活生に変わってしまうという(笑)。そういう学生の状況が、システムがいかにゾンビ化しているかを、物語っていると思います。
と締めくくる。

あれ?…どこかに通じる記憶。

それは、20年以上も前、就職活動をしていた頃の記憶。それと変わらないではないか。
なるほど。
要するに、衰退するシステムに合わせてきた国民の姿だけは、今も昔も変わらない、ということか。


「悪い記憶」でなければ、「良い記憶」なのか?
はて。どこか、引っかかる。
こうした社会を生き抜いてきた親たちにとって、そうした経験は「良い記憶」なのだろうか?
就職できた。生活できる。
確かに、家庭や企業をはじめとして、どのようなシステムにも関わることができない最悪な状態を逃れた結果は、「完全失業率のグラフ」となって現れている。 
「悪い記憶」で無いことは「良い記憶」なのか?
「コミュニケーション・モデル」では、「離脱」が起きない間は、コミュニケーションが継続していると考えた。その立場からは、「悪い記憶」がない限り、「離脱」は表面的に現れることはない。

否。「離脱」は増えている。



世界を小さくする術
ふと、意地悪な仮説を立ててみる。

Twitterにおいて、それぞれが匿名を名乗るユーザとして親子が出会う場合、どんな状態になるのだろうか?

価値観の相違に気づくことで、ふたりの親子の心の距離は大きく開いてしまうのだろうか?仮に、そうなってしまうと、二人の親子は、二度と交わり合うことがない「大きな世界」にそれぞれが生きていくことになる。

でも、仮に、互いの価値観の相違に気づいたとしても、別の価値観として近しいものを見つけることができたとしたらどうだろう?

そうなれば、ふたりの心の距離は縮まり、世界は小さくなるのではないだろうか。

どのような世界、どのようなシステムにおいても、
ひとつだけの価値観に限定しまわないこと
が、大切だと思う。

2010年4月28日水曜日

Facebookを使った呼びかけ -米国高校生たちの抗議集会-

米国のニュージャージー州の高校生たちが抗議集会を行った記事がネットで見ることができる。
http://mashable.com/2010/04/27/facebook-walkout/

高校生たちは、FaceBook上で、18才の大学生が「来年度の教育予算削減に対する抗議をしよう」と呼びかけたことに応じて集まった。

抗議に参加した参加者たちは、MySpaceやTwitterなどのソーシャル・メディアを駆使することで集まっていった。

Newark students walk out of school, take City Hall


僕は、FaceBook利用者には、「同じ価値観、あるいは、同じ文脈を共有する現実世界の人間関係」がそのまま持ち込まれていること(あるいは、その可能性)を「対等のネットワーク」中でも指摘していたので、このような抗議活動の起点にFaceBookが関与したこと自体、特に驚きはしない。

自分たちの関係が明らかな状態では、それぞれの利害関係が明示的/暗示的にわかる状態にある。その為、打算的な呼びかけや興味本位の発言に呼応して行動することは少なくても、正論と思われるような呼びかけを無視することはなかなか難しいだろう。
もっとも、日本人の感覚に、このような感覚に異論を唱える人もいるかもしれない。然し、少なくとも、開かれた言論の世界では、「沈黙していること」は「反対しない」という意志表示としてみなされる。それが、表現の自由の意味だと言えば、理解してもらえるだろうか?


参加者の感想
以下は、この記事にある抗議活動への参加者の呟き。


これって、ぶっ飛んでる感じ(insanity)。ニュージャージー州の若い世代の一部になれてこれまでこんなに良かったと思うことはなかったわ。一緒に参加した皆を誇りに思う。みんなが美しい。
これだけの高揚感に満ちた経験は、彼女ひとりだけの感想なのだろうか?


共有される価値観
FaceBookから発生したこの手の抗議活動は、ある人たちにとっては、
とても厄介な問題になり得る
と思う。

人は、行動を起こし、その結果にメリットを感じる場合、それは強い「良い記憶」となる。これは、「学習」プロセスの大切なメカニズムになっている。

強力な「良い記憶」は、他の人と共有したいと思う行動を呼び起こす。これが、「パーセプション・モデル」の原理だ。その切り口から見ると、彼女の呟きからは、明らかに「学習」の形跡を読み取れるように思う。

これまで、企業は、自社製品やサービスの美辞麗句を並べ立てるようなコマーシャルにたくさんの予算を割り振り、それらをマス・メディアによって大量に発信してきた。しかし、ソーシャル・メディアは、人と人の関係を凄まじい早さで繋ぐことで、「信頼と評判」で繋がる新しい社会の秩序を作ろうとしている。

僕自身の認識が間違っていなければ、このソーシャル・メディアの時代になる時、その中心にいるのは、この記事にあるような若い世代のはずだ。
この記事に対する評価を自分たちの知識や価値観だけに当てはめて下すことは、本当に正しいのだろうか?
僕は、この記事のような出来事が、今日、僕たちの周りで起きても驚かないだろう。なぜなら、世界にいる人と人は、どんどんと繋がっている。誰かの成功体験、つまり、人に自慢したくなるような「良い記憶」を自分も共有したいと望んでいるのだから。

勿論、最初からそういう価値観を共有することを望んでいない人たちもいる。
だから、厄介なのだ。

2010年4月23日金曜日

対等のネットワーク(peer networks)- FaceBookとTwitter

FaceBookは、Twitterと同じように、ソーシャル・ネットワーク・サービスであり、米国を中心として海外では、とても高い人気を博しているサイトだ。

complete社が提供している2010年3月現在のサイトアクセス解析では、FaceBook社とTwitter社の公式サイトへのユニークビジター数を比較からは、
  • FaceBook 132,040,907
  • Twitter 21,287,217
となっており、圧倒的にFacebook社が優位に見える。

もっとも、Twitter社は、Twitter APIを公開している。その結果、サードパーティーによるさまざまなブラウザが開発されており、ヘビーユーザになればなるほど、さまざまな機能を持ったサードパーティー製ブラウザを使う傾向が高い。実際、Twitter社の発表では、ユーザのトラフィック全体の75%がサードパーティー製ブラウザから行われているそうだ。その為、公式サイトへのユニークビジター数の比較は、余り当てにならない。(それでも、2100万人だけど)

もっとも、FaceBook社の公式サイトへ1億3000万を超えるユニークビジター数があるという事実は、2008年の日本の人口1億2700万人世界10位)であることを念頭に置けば、極めて大きなネットワークが存在していると認識すべきだろう。


FaceBook 社のサービス

FaceBook 社のサービスは、元々、大学内に居住する寮生たちの名簿のようなコンテンツがベースになっている。つまり、現実世界での学生同士の繋がりが、ネット空間に直接持ち込まれた結果、「顔見知り同士のネットワーク」が出来上がった。

FaceBook ユーザは現実世界に存在する人物その人なので、興味本位のなりすましや真偽の不確かな情報の流布を行えば、直接、そのユーザの「信頼や評判」が崩れることになる。その為、そこでやり取りされる情報は、仮に思い込みのようなものであっても、実在する人物から発信された「(信じてみるだけの価値がある)質の高いコンテンツ」になった。また、そのような「(現実世界に存在する人物その人であるという)存在証明」が行われた学生同士の繋がりは、「(ある程度の)信頼に値するコミュニティー」、つまり、ソーシャル・ネットワークになっていった。

FaceBook 社は、2006年9月の一般公開後も、
  • 「質の高いコンテンツ」
  • 「信頼に値するコミュニティー」
の維持に努めて来ている。

FaceBook サービスを利用するには、以下のようにする。

まず、新規登録を行う。新規ユーザは、既存ユーザに知り合いがいるかどうかを確認される。既存ユーザが見つかった場合は、既存ユーザは、新規ユーザに対する「認証」を求められる。この「認証」を行った人間関係は、それぞれのユーザを紹介するページで明示的に表示される。

実は、この「認証」こそ、「信頼に値するコミュニティー」の維持を目的とした重要なプロセスになっている。つまり、既存ユーザは、自らの「信頼や評判」を損なわないように、新規ユーザを確認し、新規ユーザの「存在証明」の役割を担うことを、意識的に、無意識的に求められるからだ。もし、あるユーザが不正な行為をしたとするとどうなるだろう。そのユーザが、あなたを紹介するページで明示的に示されることを想像してみて欲しい。

一方、サービス利用者は、あるユーザと別のユーザとの明示的な関係をみることで、ソーシャル・ネットワークを広げることができる。

携帯電話による存在証明」の中で紹介した「ソーシャル・メディアと携帯電話の関係」のグラフは、FaceBook世代the FaceBook Generation)のような言葉の意味を正に裏付けている。
FaceBook世代 授業中にも携帯電話でのメールを欠かせない世代を指す。
FaceBook社のサービスは、携帯電話を使うことで活発化している。このことは、間違いないだろう。つまり、携帯電話は、FaceBook ユーザたちの繋がる機会創出を行い、より多くの情報とその情報の広がる範囲を拡大させているようだ。

「携帯電話を使ったメール交換が社会問題化した日本」

「携帯電話を使ったメール交換が社会問題化した日本」では、FaceBook ユーザたちの特性を想起しやすいのではないだだろうか?

そこで、FaceBook ユーザの繋がりを乱暴に仮説してみる。

まず、「同じ価値観、あるいは、同じ文脈」を共有する人たちが作る人間関係がある。その人間関係を集団として捉えると、それぞれの集団は、ある価値観を共有しているだろう。例えば、同じ地域の出身であるとか、同じ学問を学んだとか、同じ倶楽部をやっているとか。ただし、この価値観だけでは、ひとつひとつの集団は大きすぎることは間違いない。そこで、価値観、好み、相性のような人間性が大きく関わってくる。そうすると、途端に小さな集団になるはずだ。

ひとつひとつの集団の繋がりは、本来、比較的、安定しているはずだ。集団に関わる人たちが、現実世界からネット世界に移動してくる時期を過ぎると、新規の人間関係が追加される可能性はさほど多くないだろう。しかし、ある集団と別の集団を繋ぐ関係が一つ増えるだけで、人間関係の繋がりは大きく広がることになる。

一方、FaceBookサービスは、ある集団と対立するような別の集団が使うこともあるだろう。
しかし、見方を変えれば、対立軸にある集団は、その対立関係を含めたより大きな集団として捉えることができる。その結果、情報交換をどれだけ頻繁に行うかを別にすれば、FaceBook ユーザの繋がりに、一定の価値観による分類が可能なように思われる。

FaceBook社のGraph APIは、こうしたユーザの繋がりを裏付ける解析に役立つだろう、と思う。


対等のネットワーク

では、ソーシャル・ネットワーク・サービスとして見たとき、
FaceBookは、Twitterよりも優れているのだろうか?
斉藤透さんのブログ「TwitterとFacebook,どちらが世界最大のソーシャル・ネットワークになるのか?」では、後発のTwitter 社の成長が大きく、現在の成長率が半年続くと、月間訪問者数で、Twitter 社が、FaceBook社を追い抜くそうである。

斉藤透さんは、世界最大のソーシャル・ネットワークになる上で、世界中のインターネット利用者(中国を除く)のうち、15億人の上限を前提に話をされている。

勿論、利用者数が多い方が勝ちという判断が、「優れている」を決めることにはならないと思う。

僕は、Craig Newmarkさんの「信頼と評判」の中に出てくる「対等のネットワークpeer networks)」を実現するソーシャル・ネットワーク・サービスにどちらが近いか、という点で、この優劣を判断したいと思っている。
…この時代の終わりまでに、力と影響は、資本とわずかな力を持つ人々から、最も高い評判と信頼のネットワークを持つ人々に大きく変化するでしょう。つまり、対等のネットワーク(peer networks)では、草の根から現れる人々に当たり前のように相談するようになります。
この切り口から両者のサービスを比較してみる。

まず、FaceBookのサービスの本質は、
同じ価値観、あるいは、同じ文脈」に「依存」の人間関係
にある、と思う。

その為、これまでの価値観や文脈を違えることになると、煩わしい人間関係が邪魔になってくる。勿論、そうした対立する価値観を背負って発言することを非難するつもりではない。然し、社会には、さまざまな力関係があり、その力関係の中で、同じ言葉であっても、同じように人の心に届かないことがあるのではないか、と思う。

一方、Twitterのサービスの本質は、
同じ価値観、あるいは、同じ文脈」に「非依存」の人間関係
にある、と思う。

その為、様々な価値観の言葉が飛び交い、同じ言葉でも、意味や解し方を巡って議論が絶えない。勿論、Twitterがそもそも議論をするのに適したツールであるかどうか、は怪しい。然し、Twitterの口コミ的な広がりだけに着目することには、否定的にならざるを得ない。Twitterは、「さまざまな価値観、あるいは、さまざまな文脈」に置かれた人の考え方を教えてくれる。

現在、Twitter 社のサービスには、とても大きな課題がある。

それは、
存在証明」と「匿名
だ。

存在証明」=「実名」と言うつもりは、さらさら無い。

実名」は、「対等なネットワーク」での「対等な会話」を阻害することがある。「実名」であることは、どのような立場からの発言に対しても威圧的な要因になりうる。むしろ、「匿名」のまま発言できる仕組みが残されるべきだ。

総務省が、国民IDの議論に本格的に取り組み始めていることから、「存在証明」を行うことは、比較的近い将来に、実現するかもしれない。

FaceBook社は、ユーザの「存在証明」によって、
  • 質の高いコンテンツ
  • 信頼に値するコミュニティー
を担保してきている。だから、「存在証明」が可能になる時には、必要に応じて、「実名」と「匿名」を選択できるようになるべきだ、と思う。

そうした条件が満たされた場合、ソーシャル・ネットワーク・サービスとして、どちらが優れているか、歴然とした答えが出るだろう、と思う。
見知らぬ人の言葉が、よく知る人の言葉より、必ず優れている保証など無い。
むしろ、問題に対して同じ距離で向き合えることで、得られた情報の価値を冷静に評価できるようになるはずだ。


米国の国会図書館では、「Twitter上で発信されたすべての呟き(Twitter社の創業時に遡ってから現在に至るまでのすべて)を保存すること」を決めたそうだ。

僕は、ソーシャル・ネットワークは、「対等のネットワーク」の中に作られていく、と思う。

2010年4月22日木曜日

インタープリター

最終的な成果物として作られるものが、
  • 「情報的要素」
  • 「ツール的要素」
がきれいに分離できるなんて思ってもいない。

極めて洗練されたインタラクティブなコンテンツを見ていると、表現のモーチフになっていた対象も然ることながら、その空間的な配置、タイミング、色、文字、音、動き、など、とてもたくさんの要素が織り上げられるようにして、独創的な世界観を醸し出す。

こういったものを要素として完全に切り分けること自体、全く意味をなさないと思う。

また、グラフィカル・ユーザ・インタフェース・デザインの分野では、相当の期間に渡って緻密なデザインが行われてきている。さまざまな情報を整然と配置することは、さまざまな「情報的要素」を「ツール的要素」として実装していることと考えている。

例えば、『デザインニング・インタフェース』(オライリー・ジャパン刊)を開いてみれば、ひとつひとつのデザインが単独に存在するのではなく、さまざまな要素と組み合わされることを意図して設計されていることがよく分かる。そうした緻密に積み上げられてきたものを部分的に分解したとして、何の役にも立たない。

それでも、日本語しか読めないユーザだからと言って、日本語以外の表現をすべて禁じることが良い結果を有無とは限らない。ボタンに表記された文字の意味がわからないことで、離脱するようなことは十分考えられる。

巧みに組み合わされた表現であっても、ユーザにとって判る易い「情報的要素」の役割はとても大きい。

あくまでも、「情報的要素」と「ツール的要素」を並べて考えた時に、「情報的要素」から考えることを指摘している。

プログラミングの世界には、「インタープリター」と呼ばれる技術がある。一般的には、プログラミング言語を読み取り、コンピュターに任意の処理を実行させる。自然言語解析という世界では、人間が書いた文章をコンピュータに解析させて、どのような意味を持つ文章であるかを判定できる所まで来ている。

要するに、近い将来、文字などの「情報的要素」から、特定の対象に対する処理を実行させることが可能になる。「情報的要素」そのものが「ツール的要素」になろうとしているのだ。

例えば、Twitter 上の呟きは、現時点では、人と人の情報交換の手段に過ぎないが、こうした技術を応用して利用することで、コンピュータが人の呟きに反応して動作するようになる訳だ。

先日、友人と「どうやって効率的に減量をするか」を話していたら、「ダイエット」について情報発信を行うBotからフォローされるようになった。

こうした事例は、インタープリター技術の初歩的な利用の一つだ。近い将来、リアルタイムに近い処理が行われるようになっても不思議ではない、と思う。

Twitterの未来 - Annotations

Twitter launching annotation feature, streaming API

Twitter社が主催した開発者向けのカンファレンスでは、Twitterの未来を暗示するような新しい考えが発表されている。
  • アノテーション
  • ストリーミングAPI

アノテーション

Twitterのタイムライン(TL)に表示される呟きは、サーバから送られてくるファイルの一部を取り出して表示されている。「アノテーション(Annotations)」は、ファイルの一部を拡張して新しい情報を付加する。そうすることで、呟きの文字列の中にメタデータを埋め込むことができるようになる。

これは、決定された仕様ではないが、将来的なセマンティック・ウェブへの対応を睨んだ仕様ということで、JSONやXML形式でのデータの埋め込みが検討されていて、とても興味深い。

ひとつひとつの呟きに対して、このようなメタデータの埋め込みが可能になると、さまざまな可能性が見えてくる。

例えば、ブラウザを操作しているユーザの位置情報を取得しておく。次に、サーバから送られ来たメタデータ情報にある別サーバにアクセスすることで、ユーザの現在の場所から最寄りの店舗情報を参照したり、呟きの中に表示される店舗情報を置換できるようになる。また、状況に応じて、店舗までの誘導を行うことも考えられる。


ストリーミングAPI
現在、Twitterには、
「the Twitter firehose」と呼ばれる「すべてのデータの流れ」
「the spritzer」と呼ばれる「制限されたデータの流れ」
があり、前者は、一部のパートナーのみに開放されており、一般的な開発者は、後者を使うことになっている。

Twitter社は、新たに、「User Streams」と呼ばれる新しいデータの流れを検討してる。この技術が利用されるようになると、IRCのような、よりリアルタイムに近い会話(チャット)を行うことが可能になる。(現在は、Webサービスという技術をベースにしており、設定された一定時間毎にサーバにアクセスを行う、フォローしたユーザの最新の呟きデータを取得している。)


この2つの試みは、Twitter上でやり取りされる「情報の深さ」と「情報のリアルタイム性」を拡張するものと言える。

個人的な経験からすると、「情報のリアルタイム性」の拡張には懐疑的な部分がある。より白熱した議論になればなるほど、「割り込み発言」が起きやすくなる為だ。こうした会話のマナーのようなものも、ユーザ側のリテラシーの問題と言えなくもないが、「遅延によるミスリード(Misread)」でも触れたことだが、現状でも、「クジラ」や「宇宙人」の出現する問題が解消されていないのに、どういうつもりなんだろう、と思う。

一方、「情報の深さ」を拡張することには、大いに賛成だ。むしろ、より積極的に薦めて欲しいと思っている。

多様な価値観を持っている人達が会話をする際、同じ単語でも異なった意味を想起してしまうことで、会話が食い違うことがある。「言語の次元」でも述べてきているように、同じ単語に対して発生する「意味の揺らぎ」を解決するには、敢えて、特定の意味を参照できるようにすることが不可欠だと思う。

2010年4月8日木曜日

TL: Time Line

Twitterには、Time Line(タイムライン。以下、TL)という用語が使われている。TLとは、ユーザがフォローしているユーザの呟きが時間軸に沿って表示される状態を表している。

ユーザは、それぞれにフォローする対象が異なっているので、あるユーザのTLは、別のユーザのTLとは同じではない。例えば、インターネット上の掲示板サービスなどでは、すべてのユーザが同じ内容を見ているが、Twitterでは異なることに注意して欲しい。

異なるユーザでありながら、同じユーザの呟きをTL上で見ることができる、このような偶発的な共存関係にあることが、ソーシャル・ネットワーク・サービスの最も特徴的なことであることを改めて指摘しておく。