ラベル 言語の次元 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 言語の次元 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010年4月22日木曜日

Twitterの未来 - Annotations

Twitter launching annotation feature, streaming API

Twitter社が主催した開発者向けのカンファレンスでは、Twitterの未来を暗示するような新しい考えが発表されている。
  • アノテーション
  • ストリーミングAPI

アノテーション

Twitterのタイムライン(TL)に表示される呟きは、サーバから送られてくるファイルの一部を取り出して表示されている。「アノテーション(Annotations)」は、ファイルの一部を拡張して新しい情報を付加する。そうすることで、呟きの文字列の中にメタデータを埋め込むことができるようになる。

これは、決定された仕様ではないが、将来的なセマンティック・ウェブへの対応を睨んだ仕様ということで、JSONやXML形式でのデータの埋め込みが検討されていて、とても興味深い。

ひとつひとつの呟きに対して、このようなメタデータの埋め込みが可能になると、さまざまな可能性が見えてくる。

例えば、ブラウザを操作しているユーザの位置情報を取得しておく。次に、サーバから送られ来たメタデータ情報にある別サーバにアクセスすることで、ユーザの現在の場所から最寄りの店舗情報を参照したり、呟きの中に表示される店舗情報を置換できるようになる。また、状況に応じて、店舗までの誘導を行うことも考えられる。


ストリーミングAPI
現在、Twitterには、
「the Twitter firehose」と呼ばれる「すべてのデータの流れ」
「the spritzer」と呼ばれる「制限されたデータの流れ」
があり、前者は、一部のパートナーのみに開放されており、一般的な開発者は、後者を使うことになっている。

Twitter社は、新たに、「User Streams」と呼ばれる新しいデータの流れを検討してる。この技術が利用されるようになると、IRCのような、よりリアルタイムに近い会話(チャット)を行うことが可能になる。(現在は、Webサービスという技術をベースにしており、設定された一定時間毎にサーバにアクセスを行う、フォローしたユーザの最新の呟きデータを取得している。)


この2つの試みは、Twitter上でやり取りされる「情報の深さ」と「情報のリアルタイム性」を拡張するものと言える。

個人的な経験からすると、「情報のリアルタイム性」の拡張には懐疑的な部分がある。より白熱した議論になればなるほど、「割り込み発言」が起きやすくなる為だ。こうした会話のマナーのようなものも、ユーザ側のリテラシーの問題と言えなくもないが、「遅延によるミスリード(Misread)」でも触れたことだが、現状でも、「クジラ」や「宇宙人」の出現する問題が解消されていないのに、どういうつもりなんだろう、と思う。

一方、「情報の深さ」を拡張することには、大いに賛成だ。むしろ、より積極的に薦めて欲しいと思っている。

多様な価値観を持っている人達が会話をする際、同じ単語でも異なった意味を想起してしまうことで、会話が食い違うことがある。「言語の次元」でも述べてきているように、同じ単語に対して発生する「意味の揺らぎ」を解決するには、敢えて、特定の意味を参照できるようにすることが不可欠だと思う。

2010年4月21日水曜日

ヒューマン・センタード・デザイン(3)

ヒューマン・センタード・デザイン(2)」において、以下のように書いた。
どのような大きさのサービスであれ、すべてのサービスは、
  • 「情報的要素」
  • 「ツール的要素」
から構成されている。
しかし、実際にサービスを使う場合、つまり、この2つの要素を使いこなすのは、
ユーザの意志
である。

個人の価値観が多様化してくると、サービスを設計する上で、ユーザをどのように捉えるかが重要な問題になる。

人と人の会話において、会話する相手が変わる度に、自分の表現方法を変えることは難しい。現実世界に目を向けてみると、こうした表現方法を変えることを嫌って、世代間のコミュニケーションに不具合が起きている、ように思う。

ここで、「ユーザ・モデル」として紹介した「ペルソナ」を思い出して欲しい。

「ペルソナ」を使うと、現実世界で起きているコミュニケーション・モデルの不具合をうまく説明できることが多かった、ように思う。


これまで、「サービス」が設計される場合、「サービス」と「ユーザ(サービス利用者)」という関係でコミュニケーションを考えることが一般的であった。

「サービス」提供者は、「ペルソナ」を使って、より多くのユーザの好みにあった表現に創意工夫をこらしてきた。

しかし、さまざまな個人ブログのようなコンテンツをみていると、ブログ・サービス自体に利用者が期待しているものは、ますます、「情報的要素」の比率が高くなってきているように思う。勿論、さまざまなメディアを使いこなして表現されるコンテンツに人気がない訳ではない。

こうした傾向をちょっと説明してみよう。

例えば、ブログ・サービスを中心に見ると、発信者(ペルソナ#A)と受信者(ペルソナ#B)の関係は、以下のようになる。


ペルソナ#A ブログ・サービスが提供されているサーバに、コンテンツをアップロードする。
ペルソナ#B 同じサーバにアクセスを行う。コンテンツが気に入れば、ブックマークを行う。

ところが、厳密には、このコミュニケーション・モデルは、不完全なものと言える。
そこで、次の図を併せてみて欲しい。


ペルソナ#B 検索サービスを使って、ペルソナ#Aのブログを見つけなくてはならない。
では、このふたりのペルソナを繋いだものは何だろうか?
  • 検索に使ったキーワード
  • 検索結果として表示されたブログの抜粋
文字情報がとても重要な役割を果たしている。これは、個人のブログだけ無く、政府、自治体、企業などから発信される情報でも、大きく異なることはないだろう。

折角なので、もう少し理解を深めてみよう。

仮に、ペルソナ#Bもブログによって情報発信をしていたとすると、ふたりのペルソナの関係には、以下のような関係が生まれるかもしれない。



そして、このペルソナの関係を一つのサービスとして表現すると、以下のような図になる。


そう。気づいて頂けただろうか?

これが、ソーシャル・ネットワーク・サービスのコミュニケーション・モデルとなる。

このように、
  • 検索サービスを使ってブログを探して、気に入ったブログ(情報)をブックマークする場合
  • ソーシャル・ネットワーク・サービス上で、フォローしている人の呟き(情報)をリツリートする場合
それぞれのユーザ・ワーク・モデルは、とても似ている。

そして、ペルソナとペルソナ、つまり、ユーザとユーザを繋ぐ場合、「ツール的要素」より、「情報的要素」がより重要な役割を果たしていることが判る。

2010年現在。「ユーザの意思」を決定するには、言語を中心とした「情報的要素」がとても深く関わっている。言語をただの文字や言葉として捉えるのではなく、同じ言葉であっても、さまざまな受けとめられ方があるような、そういった問題についての見識を広めることが重要に思う。

それは、これまでの人類の歴史がそうであったように、余計な衝突を回避させてくれる、と思う。

この問題を解決する為の切り口として、「言語の次元」を読んで頂ければと思う。勿論、この内容がすべての答えになるとは思っていない。実際、言葉が無いことで衝突が起きる場合もあれば、言葉があることで衝突が起きる場合もある。然し、どのような衝突が起きた場合でも、ひとつひとつのことば、その言語の次元を、都度、「パラフレーズ」することができれば、新たな展開が見えてくると思う。

2010年4月8日木曜日

パラフレーズ

TwitterTLに表示される呟きを眺めていると、ジャーナリストやライターの方の呟きが、自然と目に飛び込んでくる。同じTLの中には、作家、エッセイスト、あるいは、思想家のような方もいらっしゃて、個人的には、実際に文字を読んでみると、この方たちの呟きに共感を覚えることが多いのだが、ジャーナリストやライターの方の呟きは、どことなく鋭く突き刺さってくる。

TLにいる並んでいる呟きには、同じ言葉、同じ文字が使われているはずなのに、
なぜ、その言葉が突き刺さるのか?
どれだけ多くの人の目に飛び込みやすい文字を意識して使うことができるのか、具体的な統計を取るなどをしている訳ではないが、きっとそのような単語の存在があるのではないか、と思う。

それと、もうひとつ。かれらの表現で驚かされるのは、
パラフレーズ(言い換えること)の能力。
混みいった話や複雑な事象を簡潔に要約するだけでなく、「なるほど分かりやすい」と思えるようなパラフレーズが自然に出てくる。なぜ、そういう切り口から言葉に置き換えて頂けるのかと、と思い始めると、その才能に嫉妬しそうになる。

このような感覚は、大学時代に読み耽ったロラン・バルトに通じているように思う。

ロラン・バルトは、「明るい部屋」の中で、
  • ストゥディウム
  • プンクトゥム
という二つの概念で写真から読み取れる意味を表現しようとした。

バルトは、新聞の記事に添えられる写真は、記事、つまり、文字と対になることで判りやすい意味を伴うと指摘する。バルトは、それをストゥディウムと呼んだ。

僕は、文字として表現されたものの中には、写真のストゥディウム的な意味と呼応するような文字があるのではないか、と思う。その場合の文字とは、文字そのものは同じでも、僕が「言語の次元」で触れたような、どの次元の言語であるかが重要になる。また、パラフレーズされる時には、どの次元からどの次元へ、パラフレーズされているかを意識することが重要になる。

この指摘は、「ソーシャル・キャリアーの活性化の条件」にも繋がる点だと思っている。

一方、バルトは、亡くなった母親の面影を留めた一枚の写真、ただそのひとつに、プンクトゥムがあると言っている。バルトの言うプンクトゥムとは、「言語の次元」のどれにも当てはまらないように思う。敢えて言うならば、「ゼロ次言語」の文字が結ぶつく対象そのもののようにも思う。また、気づいているものの言葉に置き換えることが難しい、「暗黙知」のようなモノではないかと思う。
現代人の多くは、老若男女を問わず、「〜ような」「〜みたいな」という表現を使う。これらは、写真に含まれるプンクトゥムのような明確な意味ではないと思うので、敢えて書き添えておく。ぼやっとしているだけでは、プンクトゥムではない。

僕は、作家、エッセイスト、あるいは、思想家のような方の表現には、彼らだけが知っている、その言葉の裏側に潜むプンクトゥムのような意味に通じる、どこかノスタルジー的なものを感じている。一方、ジャーナリストやライターの方の表現には、新しいもの、埋もれていたものを発掘した時の驚きに似たもの(バルトは、センセーショナルという表現を加えていた)を感じる。

作家、エッセイスト、あるいは、思想家のような方の呟きは、ノスタルジーのようなものを感じることが多い。僕の心の何処かでは、そうした呟きに共感を覚える、なにかが脈づいていて、彼らの呟きを目にするとその何かを探し始める自分がいるように思う。

それは、子供のドングリ探しに似ている。たくさんの落ち葉の影にあるドングリを探すような、口に入れて食べる訳でもないのに、ドングリを握りしめながら、次のドングリを探す。たくさんのドングリを人って、何か満たされたような記憶は無いだろうか?

僕は、言葉の中にも、バルトのプンクトゥムのような役割を担うようなものがあるのではないか?と思う。このような感覚をパラフレーズできる能力がある人達が、作家、エッセイスト、あるいは、思想家のような方なのではないかと考える。

一方、ジャーナリストやライターの方の呟きには、壁に空いた節穴から光が差し込むような、得体の知れない期待が膨らむ。彼らの才能が非凡でないとすれば、その節穴をいくつも空けずに、暗闇の中に、その光を点すようなところではないかと思う。彼らの呟きをまねて呟いたとしても、TLの中に紛れてしまう自分の呟きにあがくような気持ちになることは、僕に限ったことではないだろう。

僕は、言葉の中にも、バルトのプンクトゥムのような役割を担うようなものがあるのではないか?と思う。このような感覚をパラフレーズできる能力がある人達が、ジャーナリストやライターのような方なのではないかと考える。

2010年3月29日月曜日

マクロ・ミクロ・メタ的な空間からのパラフレーズ。

例えば、社会学者、細菌学者、哲学者のような人達が、それぞれの専門的な話をすると途端に難しくなる。

言語の次元」で書いた言葉を用いて言う(ほら、こう書いただけで途端に難しくなる表現には、記号のような言葉が使われることが多い)と、彼らは、もっぱら四次言語を使って、専門的な会話をする。つまり、一般人からすると、記号のようなコトバに置き換えて話をするので、それを聞かされる人間からすると、自分たちの生活の何処でそれが起きているのか、想像がつかないことが多いのだろう。

社会学者は、自分たちの目線を遥かに超えて、実体として捉えようの無いマクロな空間の話をしている。細菌学者は、私たちの目につくところ、例えば、手のひらの上にあっても極端に小さすぎて見えない、ミクロな空間の話をしている。哲学者は、誰もが考えること、思いつくようなことなんだけど、その都度、その考えや精神的な状態を留めて、この感覚ですと説明できない、メタな空間の話をしている。

私たちの生活は、こうした特殊な専門領域を持つ人達の言語で溢れ返っていて、なぜ「言語の次元」をパラダイム・シフトできないのか?と思うことがある。

僕は、異なる次元間のパラダイム・シフトをパラフレーズすることが出来ないか?と常々考えている。難しい問題や出来事であっても、どんなことでも「知る」ことはとても大切なこと。「知らない」ことについては、誰も話をすることさえ出来ない。

今、僕の一番興味のある、自然言語解析が用いられる領域は、より大きな格差を生み出す為にではなく、より大きな共通理解を得る為に役立てられるべきだと思う。

若い子たちの間ではやる言葉や、ネットワーク上で使われる言葉も、その使われている空間を少し飛び出すと、ここにあげたような問題に遭遇することになる。

とは言え、どんな時も、自ら学ぶ機会を失うようなことをしてはならない、と思う。共通理解を得ることを諦めてしまうと、何も始まらない。だからこそ、それができずに、対立した関係が生まれる時、いつも、どうしたものかと虚しさを感じる。

2010年3月26日金曜日

辻井伸行

辻井伸行
という名前を聞いて、「ああ」と思う人も多いのではないかと思う。視覚障害者として生まれながら、音楽的才能を開花させ、多くの音楽ファンを楽しませてくれる、とても魅力的な人。

幸せなことに、僕は目が見える。

然し、彼のような音楽の才能があるとは思えない。どれだけたくさんの書物を読むことができたとしても、その文字のうわべの意味だけを追いかけていては、それを表現する者が与えてくれたきっかけを活かすことは難しいのではないか、と思う。

音楽の世界にも、それに通じることが無いかと思ったので、書くことにした。

物理学の世界では、音そのものは、周波数によって表され、人間が聞くことのできる帯域の音が、僕たちの感じることのできる音。つまり、感じた音、音そのものは、「ゼロ次言語」だと判る。音階の中で位置づけられることは、「一次言語」と同じ。勿論、楽譜にあるさまざまな記号(クレッシェンド、フォルテ、メゾピアノ)が加わることで、文脈を添えられると「二次言語」。音楽家と呼ばれる人の中には、楽譜の解釈にもいろいろと通説があるらしいので「三次言語」。そうした演奏や音楽家達をまとめてジャンルのような表現で括られるようになると「四次言語」。と、意外なほどあっさり区分してみた。

視覚障害者には、点字で書かれた楽譜があると聞く。しかし、彼は、そうした楽譜を使っていたのを止めて、別の演奏家に演奏してもらい、自分の耳で聴き、それを暗記して演奏するらしい。それでいながら、楽譜に書かれた音符の忠実な再現をするそうだ。楽譜に書かれた音符の忠実な再現は、演奏家にとっての当然のことなのだが、音楽に通じる人は、そうやって再現される音に、演奏者の解釈が含まれる「音」を楽しみにしながら聴く、という。なるほど。文字通り、「音楽」なんだと思う。

さて、この次元をどうやって説明するべきか。

かつて、「すべての芸術は音楽の境地に憧れる」という言葉を知って、この言葉の意味の深いところを測りようが無かった。何処にいても聞こえてきて、心を引きつけられ、揺さぶられ、聞きながらにして、思わず、自分の感情を表現せずにはいられない衝動に駆られる音楽のことを思ってみたことがある。
彼の音楽を聴いて感じるのは、彼の音に蹂躙されていたいという衝動。

音符という表記を読もうとすることさえ煩わしかったのではないかと邪推する自分に、下を向いてみる。

2010年3月25日木曜日

言語の次元

君と僕は、同じ言葉を使って話しているからきっと僕が感じたこと、思ったことを言葉にすれば、それが君にも伝わり、君と僕は思いを共有できるはず…。
自分以外の誰かと意思疎通でぶつかると、こうした仮定があまりにも無力で、無意味だと痛感する。

言語には、いくつかの次元があるように思う。

ゼロ次言語
言葉が十分に通じないような外国人との会話でも、意思疎通ができることもある。「これ」「それ」「あれ」「どれ」といった「こそあど言葉」が示す、今、会話をしている当事者が共有している空間にあるモノ(実体)の話はうまくいくことが多い。とりあえず、こうしたほとんど言葉に依存せずに会話する際、そこに使われる言語を「ゼロ次言語」と呼んでみる。

ゼロ次言語は、対象を指差すことで表すことも可能なので、言語と呼ぶべきか悩むところだから「ゼロ」としてみた。

一次言語
英語の授業を一通り受けた後、テストシーズンを迎え、英語の試験を受けると、辞書の丸覚えにも等しい、通り一遍の意味を答えさせる問題にぶつかる。試験でどのような成績を収めても、実際に会話ができるかどうかは分からない。然し、ひとつの単語にひとつの意味のような関係で成立する言語を「一次言語」と呼んでみる。

二次言語
英語の試験も、より実践的な試験になると、時事問題など現在起こっている事柄を英語で考えさせる問題が出てくる。この場合、一般的に通説とされる解釈と異なる解釈が存在することを知っていても、試験の時には、通説とされる解釈を答えとして書かないと、正解とされない。こうした問題と正解の関係にある言語を「二次言語」と呼んでみる。

三次言語
さまざまな事象を眺めて、前提の傾向や対策といった考え方をまとめることが要求される場合、広くは、企画書を制作したり、調査資料を作ったりする場合、そうした内容について議論するには、それ相応の専門的な知識や経験が要求される。言い換えれば、その言語を自由に操れていても、分かる人には分かる言語を「三次言語」と呼んでみる。

このように、次元が高くなるに連れて、現実に存在する事柄よりも、より抽象的な言語になってきていると理解してもらえるだろうか。

四次言語
実は、僕たちの使う言葉の中で、これまで述べたどの次元の言語にも当てはまらない言語が存在するとすれば、この「四次言語」だと思う。学者や哲学者が使う言葉は、僕たちの生活にどのように活かせばいいのか分からないことがある。然し、彼らは、ひとつひとつの言葉に意味を与え、それを計算式のように必要な時に持ち出しては、その言葉に込められた複雑な意味を普通に話し始める。

おさらいのつもりで、りんごについて考えてみる。

  • 目の前にあるりんご。(ゼロ次言語)
  • Apple。バラ科の落葉高木。(一次言語:辞書の定義)
  • りんごが落ちるのを見て、ニュートンは閃いた。(二次言語:通説)
  • 肉と一緒に煮込んでやると適度な酸味がつくので喜ぶ人が多い。(三次言語:料理人の経験に基づく知識)
  • APPL(四次言語:Nasdaq市場におけるApple Inc.の表記記号)

多くの人は、こうした言葉の使い分けを無意識にできているのかもしれないけど、僕は、何かについて話そうとする時、今、どの次元の言語を使うべきか、しばしば悩む。僕として、言葉が誰にでも同じように伝わることはあり得ないことを心に留めておきたい。