ラベル ソーシャル・ジャーナリズム の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ソーシャル・ジャーナリズム の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年8月18日木曜日

次の首相に何を求めるか?

「次の首相に何を求めるか?」
そんなタイトルが眼に飛び込んできた。

ニュースサービスから送られてくるメールの表題なのだが、その文字が意味すること、つまり読者に何を期待しているのかが分からなかった。つい最近、「ゲーミフィケーション」という言葉を何度か聞いていたので、表題を見た時に「新しいゲームのボスキャラの必殺技でも公募しているのか?」と勘ぐってしまったことを最初に暴露しておく。

ちなみに、ゲーミフィケーションとは、まだ新しいバズワードなので、インターネット上でも明確な定義を探すことはできないようだ。そこで、いくつかのブログ等を読み漁ってみてまとめると、
「ゲーミフィケーションとは、特定サービスの継続的利用を促すために、サービス利用者の利用状況に応じた評価が与えられるようなゲーム性を導入すること」
のような定義になった。

さて、日本の政治システムが「代表民主制」であることから、首相の選出に直接有権者が係わることはできない。また、与党の政党内部で党代表選挙の結果が、事実上の首相選出になることから、マスメディア報道がそうした選挙の有権者、つまりは、与党政党の党員であり、投票資格者に対して訴える情報であるならば、より具体的な政策内容に踏み込んで主張することが重要であるように思う。つまり、ニュースサービスの読者が考える政策内容を問うようなことをしたとしても、そもそもの政策内容を理解していないうちから、その政策内容を批判することはできないからである。

このようなニュース報道の問題は、随分と長い間当然のように行われてきている。テレビであれ、新聞であっても、政策の見出しこそ大きく伝えるが、政策の目的と効果を簡潔にまとめるだけで、その政策の問題点や効率性などが報道されることはない。だから、大本営発表と揶揄する声があっても、それが事実であるので、冒頭の表題を見てもただ首を傾げることになる。

ところが、ゲーミフィケーションというバズワードを介してマスコミ報道が行ってきている現象を改めてみてみると、読者の興味喚起をすることで、今後の関連ニュースに関心を持ってもらうことを意図しているのではないか?と思えてくる。正に、新しいゲームのボスキャラをああだこうだと勝手に想像を巡らせて、話題作りをしたところに、実際の首相が決まるとすれば、次に始まるのは、ボスキャラ攻略の弱点探しになる。

そのように捉え直すことができるのであれば、この何代かの日本国総理大臣(首相)の人間性を批難する報道がどれほど多いか、見直してみるのも面白いだろう。

政治家は、具体的な政策を始めるための決定を議会で行っている。既に始まった政策の実行者は公務員(行政官庁のトップに閣僚の名前があるからと言って、彼らに政策を変更する権限がないのは明らかなのだけれど)である。しかし、マスメディア報道は、政策議論が始まっても政策内容の問題点や効率性など、実際の行政窓口に寄せられる不満や苦情、制度そのものの非効率性などに対する訴えを予見するような議論はいっさい行っていない。

日本の政治に関するマスメディア報道の目的は、政治システムではなく政治家を対象として苦情を言いたい人たちの為に作られた「政治家批判サービス」のように思える。
政治家批判サービスでは、サービス利用状況に応じて、政治家個人の批判すべき問題がたくさん得られるようになっています。(政治システムや政策内容に関連する情報はサービス対象外ですので、ご注意ください。)
 そして、このサービスには、ゲーミフィケーションのような考え方が、随分と巧みに利用されているように思う。
継続的なサービス利用を頂くことで、政治家の攻略方法や隠しコマンド(スキャンダル)をいち早く知ることができ、自分が政治家の不正を暴いたという優越感に浸ることができるという特典があります。
そして、この最近、急激にこうしたゲーミフィケーション的なサービスの中に取り込まれつつあるのが、ソーシャル・ネットワーク・サービスではないだろうか?せっかくなので、以下のように但し書きをつけていくことが親切ではないかと思う。
ソーシャル・ネットワーク・サービスを一緒にご利用頂けるように、リンク情報を提供することになりました。但し、一定期間の掲載後は、リンクが消失されますし、報道内容の情報源が特定できない場合も多くございますので、風評被害の発信者にならないようにご注意ください。
もっとも、個人的に注目しているのは、政治家の問題ではなく、今、議論されようとしている政策の問題点や効率性の問題であったり、既に実施されている行政サービスの問題点や効率性の問題なのだが、マスコミ報道は、なぜか画一化されたように、大本営発表をなぞることに徹している。

このあたりに、ソーシャンル・ジャーナリズムへの拓かれるべき道筋があるのではないかと思う。

2010年5月2日日曜日

クライメート事件 -フィンランド教育に学ぶ

その問題は、ジャーナリストの岩上安身氏の「呟き」から始まった。
先ほど、記者見習いの須藤君が、帰って来て今日の学術会議の報告。それが、実にショッキング。まず、クライメート事件について。ICPP(気候変動に関する政府間パネル)から、漏洩した情報が、事実である、ということ。

「呟き」を噛み砕く。
この「呟き」の主要なキーワードを抽出してみる。
  • 「記者見習いの須藤君」
  • 「今日の学術会議」
  • 「クライメート事件」
  • ICPPIPCC(気候変動に関する政府間パネル)から、漏洩した情報が、事実である」
その上で、ひとつひとつを噛み砕いてみる。


記者見習いの須藤君
岩上氏のお弟子さん?つまりは、ジャーナリスト?


今日の学術会議
「今日(2010年4月30日)」の「学術会議」と「検索」してみると、以下の「呟き」が近しいように思われる。
4月30日(金)午後に日本学術会議が公開シンポジウム「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)問題の検証と今後の科学の課題」を開催。15時から「IPCC 問題が問いかけるもの:科学的作業、情報・倫理、科学者の行動規範」 http://bit.ly/daIWsW #f_o_s
この「呟き」に「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)」というキーワードが含まれることから、どうやら日本学術会議が主催した「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)問題の検証と今後の化学の課題」と題された公開シンポジウムのことらしいと推定。


クライメート事件
クライメート事件」については、いろいろな情報がインターネット上に存在するようだ。
Climatic Research Unitメールハッキング事件 - Wikipedia

このビデオは、2009年11月23日、米国Foxニュースが放送したものを、2009年11月26日に日本語字幕が添えられてアップされている。

是非、観て欲しい。


IPCC(気候変動に関する政府間パネル)から、漏洩した情報が、事実である
まず、このシンポジウムが、
IPCC(気候変動に関する政府間パネル)問題の検証と今後の科学の課題
と題されていることから、日本の学術関係者たちがこの問題についてある認識する為に催されたと認識する。


僕は何から、それを学ぶのか?
僕自身は、岩上さんの呟きを見るまで、この問題について何も知らなかった。

僕の認識は、「地球温暖化」と言っても、科学的に評価できる統計値が限られていることから、どの時点、どの期間を基準として「温暖化」と呼ぶべきか、とても怪しいこと。それを踏まえて、「地球温暖化」という仮説がある、という認識だった。

また、温暖化の原因の全てがあたかも排出される二酸化炭素にある、とする議論そのものには興味がない。然し、副次的に、二酸化炭素削減の為に、緑化に努めようとする気運が高まることには好意的なので、「地球温暖化」の極論には反対でも、総論として得られる方向性に同意しているまでだ。

そこで、一般的な考えを探るのに、「気候変動」から連想して「地球温暖化」と「検索」し、次のページを読んでみる。
地球温暖化 -wikipedia
こちらは、環境省サイトの次のホームページ。
地球温暖化の科学的知見
IPCC第4次評価報告書について
なるほど。環境省は、今日(2010年5月2日)時点でさえ、「IPCC問題」を認めることをしていない。

然し、どうも解せない。

環境省としては、見識者たちの考え、つまりは、日本学術会議が主催したシンポジウムの内容を踏まえて発表するというつもりなのか?

そもそも、「IPCC問題」は無かったものとして放置するには、時間が経ちすぎてはしないか?

岩上さんは、後に続く「呟き」でこのように述べている。
続き。このクライメート事件とは、「地球が温暖化している証拠などないのに、政治的な思惑によって、温暖化が進んでいる、という宣伝が行われている」という内部情報が洩れた事件。これは、欧米では大変なスキャンダルとして扱われたが、日本ではメディアが積極的にとりあげようとはしなかった。
確かに、日本のメディアが取り上げなかった。


こうした状況を踏まえると、2009年12月09日 12時00分更新の池田信夫氏の投稿。
「クライメートゲート」事件が壊すマスメディアの情報独占
これは、いけてる。

図は、Wikimedia Commonsより

この他にも、データをグラフにするとき気温を高く見せるスクリプトが発見されている。またIPCCの結論と異なる論文を発表した学術誌“Climate Research”から査読委員を引き上げる話が出ている。IPCCの研究者はよく「懐疑派の研究は学術誌には出ていない」とその信用性を否定するが、このように組織的に懐疑派の論文を排除する工作が行なわれていたわけである。
見事に、「IPCC問題」を暴く証拠を挙げている。


フィンランド教育に学ぶメディア・リテラシー
フィンランド教育に学ぶメディア・リテラシー」のなかで紹介した2つの算数の
問題。
5+6=?
?+?=11
「IPCC問題」が起きた原因は、「地球温暖化」に関わる問題が、前者のような問題として扱われることを意図した為ではないだろうか?と思う。

だからこそ、僕は、岩上さんの「呟き」に始まる一連の問題を、後者のような問題として考えたい。

つまり、受け取った問題の答えとなるような要素の組み合わせについて、あれこれと考えを巡らせてみたいと思う。
  • なぜ、環境省は、「IPCC問題」を公式に認めないのか?
  • なぜ、マスメディアは、一連の問題を報道しないのか?
  • なぜ、これだけの時間が経過しているのか?
  • なぜ、国際的な日本企業は沈黙したままなのか?
  • なぜ、データのグラフ化に不正が行われる必要があったのか?
  • なぜ、こうした問題が、今頃になってシンポジウムが開かれたのか?
  • 等々
僕たちは、フィンランド教育に携わる先生の気持ちになって、生徒たちが出してくる答えや、周囲の人の「呟き」について考える必要がある。

ソーシャル・ジャーナリズムの世界では、情報を受け取って、それが自分にとって有益であるかどうかを判断するのは、自分自身だ。

その事を伝えたくて、敢えて、このようにまとめてみた。

2010年4月22日木曜日

世界を編集すること

世界を編集したい
という言葉を聞いたとき、大きな衝撃が走った。

この発言の主は、フリー・ジャーナリストの岩上安身さん

僕たちの生きているこの世界には、次から次へ、新しい事象が現れ、同時多発的にさまざまな事件が発生している。

そのひとつひとつを説明する為に言葉がある。

難解な言葉を噛み砕いて平易な言葉に置き換えることも、そうした難解な言葉で綴られた長い文章を読み解こうとすることも、それを知りたいと思う人の好奇心に依存する。

好奇心がないと、自分の置かれた状況(文脈)やTLの中に突然飛び込んでくる情報を見ても、その情報がどれだけ適当な情報であっても、なにも想起できない。

インターネット上には、ありとあらゆる情報がある。

好奇心さえあれば、ひとつひとつの情報を繋いでいくことができる。
僕は、それが「編集」に繋がる概念だと思う。

岩上さんは、言う。
「…人間は、みんな不完全情報しか認識できないんです、」
なんという認識。

この方の好奇心。否、ひとつひとつの情報を繋いでいこうとする「意志」。すべてが、そうした思いからスタートしていることに、ただただ敬意を表したい。

2010年3月30日火曜日

ソーシャル・キャリアーの活性化の条件

よし、まず吐き出してしまおう。

人が何かを呟くには、それ相応のエネルギー消費が必要になる。同様に、情報を理解するにも相応のエネルギー消費が必要になる。つまり、受け取った情報の価値があるか、ないかを判定するソーシャル・サブスクライバーは、この2つのエネルギー消費量を足し合わせたエネルギー消費に見合う情報が目の前に提示されることを心待ちにしている。

次のやりとりは、ある意味で、ここに書き留めたい活性化の秘訣のすべてがある。
あるダイエット希望のおばさまのインストラクターへの言葉。「あ、キツいのは駄目。楽しく身体を動かしたいのよ。」
おばさまがダイエットしたいのは、自他ともに認めるところだが、おばさまにも分かっていることがある。運動はするべきだと理解していても、ツライと感じてしまうと止めてしまう事。このおばさまの心の動きは、多くの人の心の動きに通じている。

ソーシャル・ジャーナリストの発信する情報は、ソーシャル・サブスクライバーの潜在的なニーズに近いはずだ。少なくとも、優れたソーシャル・ジャーナリストは、ソーシャル・サブスクライバーの興味ベクトルに細心の注意を払っている。つまり、政治分野の情報を欲している人には政治分野の情報を提供しようとするし、スポーツ分野の情報を欲している人にはスポーツ分野の情報を提供しようとするだろう。

もっとも、ソーシャル・ジャーナリスト自身が、そうしたソーシャル・サブスクライバーの欲する領域に精通する知識や経験を持っていなければ、この一連の試みは簡単に頓挫してしまう。だから、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、「メッセージのベクトルと持続性」が何処に向かっているのか、をよく知っていることが最重要課題であることは、もはや疑いようも無い。
欲するものを与えよ。
ローマ帝国支配をしていた方々の言葉にも通じるような答えだが、こんなに分かりやすい活性化の条件は無いだろう。

ソーシャル・サブスクライバーにとって、興味のベクトルが同じでも、ベクトルの長さには注意が必要だろう。誰もが、既に知っている情報には、興味は示さない。むしろ、何度も同じ情報を見せられると嫌気がさしてしまい、逆効果になる。

ソーシャル・キャリアーの活物質的な役割」のなかで、電池に喩えて説明したが、ここでも電池に喩えて考えてみよう。

電池は、「電子」の池。電池の基本的な仕組みは、「特殊な溶液」に2本の電極を差し込むことで、電流は流れる。つまり、電子が、「正極(一本目の電極)」から「負極(二本目の電極)」に向かって移動することで「電流」が得られる。但し、この「正極」と「負極」の間に「適切な電位差」がないと「電流」を得ることできない。

電池に使われる特殊な溶液とは、前述の「欲するもの」になる。ソーシャル・ジャーナリストは「正極」であり、ソーシャル・サブスクライバーは「負極」にあたり、両者の間を移動する情報に「適切な電位差」がなければ、化学反応は起きない。つまり、ソーシャル・キャリアーという新たな物質を得ることはできない。

では、ここでいう「適切な電位差」とは何だろう?

冒頭の心得に従って、まず吐き出してみる。
知っていることから始めよ
これを僕の言い方で表現すると、「知の好適距離(間合い)」を取るということになる。いずれにせよ、ソーシャル・キャリアーの活性化の条件には、
  • 欲するものを与えよ。
  • 知っていることから始めよ
があることを吐き出しておく。

冒頭のおばさまの欲求は、正に、この2つに言及している。そして、おばさまが活性化するには、この条件を満たしていなくてはならない。

そして、「知の好適距離(間合い)」については、後ほど、もう少し噛み砕いていこう。

2010年3月29日月曜日

ソーシャル・キャリアーの活物質的な役割

ある物質が溶けた液体に電極を差し込むと化学反応が起きて、電気が発生する。
電池が化学反応で起こることは知っている。マンガン、水銀、アルカリ、リチウムなど、液体に溶けている物質ばかりに目が行きやすい。ん。でも、良い電極が見つかると、より良い電池ができるはず、だよね。良い電極になるような物質は、「活物質」と呼ばれている。

Twitterを眺めてながらつらつらと考えていると、ボコッと来た。

Twitterの呟きが急激に増える時間帯がある。盛り上がる話題がある。
そんな現象はなぜ起こるのだろうか。

メッセージのベクトルと持続性」の中で、ソーシャル・サブスクライバーがソーシャル・キャリアーになる瞬間について考えていた時、どこかモヤモヤするものがあった。
ソーシャル・ジャーナリズムの空間」における「活物質」とはなんだろうか?
ある物質が溶けた液体とは、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」。
液体に蓄えられた電子とは、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」に存在するひとりひとりが感じている「思い」のようなものに紐づけてみる。
しかし、これだけでは電気は発生しない。つまり、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」でも、ひとりひとりの思いが、それぞれの呟きとなって飛び交うようにはならない。
電池の場合、電極を差し込むことで化学反応が生じる。その結果、電子が流れ始める。
この状態を「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」に置き換えて考えてみる。
「電極を差し込む瞬間」とは、ソーシャル・ジャーナリストによって情報発信が行われる瞬間であるはず。然し、「情報が生まれる瞬間」と化学反応が起きることを拙速に結びつけようとして、踏みとどまる。「価値のある情報(メッセージ)」が無いところにベクトルは無い。だから、化学反応を起こしている「活物質」は、「ソーシャル・キャリアー」なんだ。ソーシャル・キャリアーが反応しないことには、化学反応は起きないんだ。

ん?じゃあ、なぜ、すべてのソーシャル・サブスクライバーが、ソーシャル・キャリアーにならないのだろうか?うーん。疑問をパラフレーズしてみよう。なぜ、一部のソーシャル・キャリアーだけが、ソーシャル・ジャーナリストの情報発信に反応するのだろうか?

うーん。そうか。なるほど。
僕が、Twitterにハマってしまった訳が見えてきた気がする。

よし。「ソーシャル・キャリアーの活性化の条件」については、後ほど噛み砕いていこう。

2010年3月28日日曜日

メッセージのベクトルと持続性

「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」における「情報が生まれる瞬間」とは、その情報が、ネットワーク上に存在する最初の瞬間であり、ソーシャル・ジャーナリストによって情報発信が行われる瞬間である。一方、「情報が死ぬ瞬間」とは、ソーシャル・サブスクライバーが、ソーシャル・ネットワーク・サービスにアクセスし、情報受信を行う瞬間である。

真の意味での「情報が死ぬ瞬間」とは、情報がネットワーク上から消えてなくなることだが、ソーシャル・ネットワーク・サービスのなかでは、情報が無くなること自体は原則としてあり得ない。だから、「情報が死ぬ瞬間」とは、情報の受け手の意識から忘れ去られる瞬間であり、情報の受け手が、「価値の無い情報(ノイズやスパム)」として受け取る瞬間と言える。

では、「価値のある情報(メッセージ)」として受け取られた場合は、どうなるのだろう?
ソーシャル・サブスクライバーは、ソーシャル・ジャーナリストからけ受取った情報が「価値のある情報(メッセージ)」と考えると、すぐさま、自らが情報の発信者となることができる。僕は、このような振る舞いをするユーザをソーシャル・キャリアーと呼ぶことにする。ソーシャル・キャリアーは、ある意味では、ソーシャル・ジャーナリストが担う役割以上に重要な役割を担っている。なぜなら、ソーシャル・キャリアーは、自らの情報発信に耳を傾けているソーシャル・サブスクライバーたちに、副次的な情報発信を行うからである。

それは極めて興味深い工程となる。
  • 情報をそのまま発信すること
  • 情報を引用し、独自情報やコメントを付加すること
  • 情報を保存すること
  • など
現実世界の出来事について情報発信を行うソーシャル・ジャーナリストの投げた情報は、彼のソーシャル・サブスクライバーによって「価値のある情報(メッセージ)」として受け取られた情報を「第一世代メッセージ」とすると、彼のソーシャル・サブスクライバーによって情報発信が行われ、さらに、ソーシャル・サブスクライバーソーシャル・サブスクライバーによって、「価値のある情報(メッセージ)」として受け取られた情報を「第二世代メッセージ」とする。つまり、「情報が死ぬ瞬間」と同時に、「情報が生まれる瞬間」がおきる。

僕は、「情報のライフサイクル」が持続的に起きていると考える。

このように情報の発信と受信が連鎖的、間欠的、偶発的に起きることで、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」は、小さなネットワーク単位から派生的に広がりを見せていく。現実世界で起きた事件が、ソーシャル・ジャーナリストによって、ソーシャル・ネットワーク・サービス上で情報発信されると、ユーザからユーザへの数珠つなぎにメッセージが伝承されはじめる。

ここで、「ユーザを繋ぐネットワーク構造」について触れたことを思い出して頂きたい。

「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、人は、「インターネット型ネットワーク」で繋がっていることから、情報発信者でありながら、情報受信者であるという奇妙な現象が起こりえる。「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、どの情報が有益であるかの判断は、情報受信者であるソーシャル・サブスクライバーに委ねられているので、「価値のある情報(メッセージ)」は、情報が消費された瞬間にしか顕在化しない。ところが、ある瞬間突然に、いくつもの世代を超えた情報が、ソーシャル・ジャーナリスト、あるいは、ソーシャル・キャリアーと遭遇することになる。

この瞬間におこる出来事を噛み砕いてみよう。

ソーシャル・ジャーナリスト、あるいは、ソーシャル・キャリアーと再び遭遇した情報は、彼らがそれぞれ発信した情報そのままであることは稀である。むしろ、再び遭遇した情報は、異なった意図を伝えていたり、最初の情報の姿をほとんど留めずにいたりすることもしばしば起こる。然し、多くの場合、再び遭遇した情報は、「価値のある情報(メッセージ)」となるだろう。なぜなら、その情報に再び遭遇することになるまでの経緯、文脈を推し量る手がかりとなるからである。

「価値のある情報(メッセージ)」は、ベクトルと持続性を最大化させる。

つまり、「価値のある情報(メッセージ)」は、これまで、ほとんど接点のなかったユーザにまで、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」の「ベクトル空間」を拡張する。そして、リアルタイムでなくても(ある日、突然思い出したようにでも)、ソーシャル・キャリアーの行為は、「ソーシャル・ジャーナリズムの空間」に広がりを与え、次のソーシャル・サブスクライバーに情報発信を行わせるという点で、情報のライフサイクル持続性が担保されていると考える。

従来のマスメディアでは出来なかったこと

ソーシャル・ジャーナリズムの空間」では、マスメディア以上に有用な情報提供が行われている例も少なくないし、従来のマスメディアでは出来なかったことが頻繁に起きている。
  • 情報表現の非制約
  • 情報配信の非地域依存
  • 情報素材の可参照
  • など
このような視点を中心に、ソーシャル・ジャーナリズムに基づいた報道を見ると面白いのではないだろうか?

情報表現の非制約
情報の形式や量に対する制限が無いこと

情報配信の非地域依存
配信サービスが地域依存が無いこと

情報素材の可参照
編集加工がされていない情報素材が参照可能であること

2010年3月26日金曜日

ソーシャル・ジャーナリズムの空間

ソーシャルジャーナリストの誕生」を読んだ。
この方のブログに触発されて、ボコッと出てきた。
なので書いてみる。
…ソーシャルジャーナリズムは、限りなくローカルなメディアとして機能する。そしてこのメディアのローカル性は、国内、国外いずれにしろ地域性と興味・関心の2軸によって展開していくのではあるまいか。…
ソーシャル・ジャーナリズムが展開される切り口として、「地域性」と「興味・関心」の2軸を取り上げられている。ジャーナリストとその読者の関係を持って、ローカル(地域性)という言葉を使うべきか悩むところだけど、それを含んだとしても、この視点からの読み取りは鋭い。

「興味・関心」が、「地域」に向けられることもあるので、この点を僕なりに補足してみる。
実際、「地域性」という表現を目の当たりにすると、「時間(時代)性」はどうなの?と動物反射的に疑問符がついてしまう。然し、このブログの突こうとしているところは、以下のようにパラフレーズしてみると、合点がいく。
つまり、
  • 「興味・関心」が指すものが、見出し語(Lemma)であり、
  • 「地域性」が指すものが、文脈(Context)
と考えてみる。
コミュニケーションに言語が使われる以上、言語の表層、つまりは、ここでいう見出し語からどんな意味を受け取るかは、パースの記号論を持ち出すまでもなく、言葉から読み取れる意味は、読み手それぞれの置かれた文脈に依存する。平たく言えば、言葉を受け取った人が思ったことが、その人にとっての言葉の意味である。当然のことながら、同じ興味(文脈)を共有することができる空間では、その興味についてのお話は盛り上がる。

遠藤薫さんは、「ネットメディアと〈コミュニティ〉形成」の序章を、カントの言葉から始められている。
カントはかつて空間を「共存の可能性」(共生の原則をさす。空間に同時に存在する実在が完全な相互作用をすることをさす)と定義した。
このカントの言葉を借りれば、ソーシャル・ジャーナリズムの空間とは、こうした文脈を共有する者達が不完全な相互作用をする空間と言い換えてもよいのではないか、と思う。ある瞬間、同じような興味を持った者が、偶然、そこに集っていると言えば、それだけのことでもある。

一義的に考えれば、ソーシャル・ジャーナリズムの空間では、ソーシャル・ジャーナリスト(情報の送り手)の発する言葉がこの空間の中心にある。この空間のそれ以外の住人は、ソーシャル・サブスクライバー(情報の受け手)である。非実在住人である側面と、現実世界にある地域(空間)の実在住人であるというハイブリッドな関係を持っている。そして、それぞれが、現実世界との関わりを通じて、ひとつひとつの言葉の真偽を精査しながら、その結果を極めて民主的な裁決として下す。それが、ソーシャル・ジャーナリズムの空間への自由な出入りと言える。
勿論、そういった空間での盛り上がりを聞きつけて、やってくる方も多いだろう。そして、そういう人は、その空間で話されている言葉が、自分の置かれた文脈と違うと思えば、その空間から出て行くだろうし、その空間に馴染めば、そこに留まることだろう。

然し、このように、一義的に考えることは拙速であると思っている。

ソーシャル・ジャーナリズムの空間では、ソーシャル・ジャーナリストは、常に集団リンチのような言葉の突き上げに食らう可能性にさらされている。すべてのソーシャル・サブスクライバーが、自らが「理解する」までを目的として、ソーシャル・ジャーナリストの話に耳を傾けているかは怪しいが、ソーシャル・サブスクライバーは、特定のソーシャル・ジャーナリスト>の声だけに隷属している訳ではない。また、情報の送り手と受け手の関係が逆転することだって十分にあり得る。つまり、ソーシャル・サブスクライバー>も、自らが主体的に情報を発信することで、ソーシャル・ジャーナリズムの空間の主となり得るからだ。

また、この逆のことにも触れておく。ソーシャル・ジャーナリストもまた、ひとりのソーシャル・サブスクライバーを主とするソーシャル・ジャーナリストの空間のソーシャル・サブスクライバーのひとりである自覚を忘れてはならない。多くのソーシャル・サブスクライバーからの話を聞くことを怠れば、ソーシャル・ジャーナリスト自身が硬直的な異語同意を繰り返しかねないジレンマに陥る。
「ややこしい。ネット上の空間」
それは、非実在の世界の話と思うかもしれない。

しかし、僕は、現実世界との差は、あまり無いと思う。ネット上の空間と現実世界との間には差があると感じている人がいるとすれば、
  • 意識的に行動するか
  • 無意識的に行動してしまっているか
この違いについて考えてみて欲しい。

この空間にハマってみて気づくことがある。それは、僕の置かれた文脈から発せられる、僕自身の言葉のリアルさを共有しているかのように望むソーシャル・サブスクライバーの存在だ。自分と同じようなことを考えている人がいる。この空間にいると、そうした感覚を何度となく感じるようになる。
でも、こんな感覚は、ファミレスでも、風呂屋でも、床屋でも、井戸端会議が行われている空間から漏れ聞こえてきた言葉に感じていた感覚と同じじゃ無いか、と今更ながらに思う。
ソーシャル・ジャーナリズムの空間とは、「亜共存の法則」が成り立つ空間
では無いかと思う。

ここで疑問をお持ちの方は、まずは、Twitterを体験してみると良い。